つながる価値、ひろがる未来。 ファイル転送、データ連携ならHULFT

製品リリース前  顧客満足度No.1のEAIツール「DataSpider Servista 4.1」開発者インタビュー

1993年に発売したファイル連携ミドルウェア「HULFT(ハルフト)」。その生みの親である西川信次氏が執筆した1980~1995年代のHULFT開発に関するコラムを公開いたします。

※ 所属・役職・社名等はインタビュー当時のものとなります。

第1話
はじまり

そもそも私がパッケージ製品に興味をもつようになったきっかけからお話ししよう。

1980年代、私は技術開発部に所属しており開発生産性向上ツールなどの開発に携わっていた。その後、業務システムの経験をした方がよいと言われ、西武百貨店の売り掛け管理システムの担当となった。半年間、ほぼ毎日終電帰りで完成させたシステムは、本番を迎えた後も障害続きで疲弊させられた。そこで得た教訓は「業務システムは労多くして、益少なし」ということである。 多くの人に汎用的な製品を提供した方がいいのではないか、と思うようになったのはこの頃からである。

1980年代後半になるとエンドユーザー・コンピューティングが広がり始めた。情報システム部ではない業務部門でPCが利用されるようになってきたのである。 1990年代に入るとインターネット普及の兆しが見え、メーカー毎に異なっていたプロトコルからTCP/IPを標準とする時代へと遷移していくことになる。 また「ネオダマ」、つまり「ネットワーク、オープンシステム、ダウンサイジング、マルチベンダー&マルチフィールド」がコンピューター業界の潮流となったのもこの頃である。

そのような変遷の中で、当社はオープン系に対応する必要に迫られていった。 しかし、オープン系の技術に精通している者は一人もいなかったため、研究用のUNIXを購入し、試行錯誤が始まった。「新しいパッケージ製品をつくれ」という社命が技術開発部の課長(当時)だった私の課に降りたのは、そんな矢先だった。

「Host Unix Link File Transfer」の略で「HULFT」

HULFTの着想は、部下の板野が「これからは分散システムが流行るはず!」と言ったのがきっかけだった。それまで情報検索のDBは汎用機が中心だったが、いかんせん汎用機は高価で効率もよくない。そこで今後オープン系にダウンサイジングされていくだろうと私達は考えた。

当初の構想では、「汎用機DBの複製をオープン系DBにつくる」、つまり今でこそ当たり前になっている「仮想化」を実現しようとしていた。「あるDBに検索条件を入れると、どこのDBにデータがあるかを判断して、自動的に検索できる仕組み」を作りたかったのだ。

しかし、当時のマシンで「仮想化DB」の構築は難易度が高かった。結局、現実的な路線へとバージョンダウンしたものが、初代HULFTである。当社はもともと受発注システムでファイル転送の仕組みをたくさん扱っていた。それを応用して、ファイル転送で自動的にDBに連携する仕組みを作った。

板野、佐藤、小林等、私を含め5人のチームで構想6ヶ月、開発6ヶ月。機能はシンプルで、メインフレームからUNIXへ一方向のみ通信されるものだった。

「Host Unix Link File Transfer」の略で「HULFT」。名前の候補はいろいろ出たのだが、私は「ハル」という音が気に入っていた。季節の「春」は明るい感じがするし、「2001年宇宙の旅」に出てくる人工知能を備えたコンピューター「HAL9000」にも通じる。ただ、あまりにも似たような名前だと商標が取れないかもしれない、ということで、File Transferの頭文字とくっつけて、「HUL-FT」という名前になった。かくしてHULFTは生まれた。

第2話
成長の兆し

HULFTをバージョンアップする機会はすぐに訪れた。西武百貨店のPOSシステムをコンサルしていたアーサー・アンダーセン(当時)からの依頼だった。TCP/IPでファイル転送し、かつ、上下双方向に集配信できる機能が必要ということだった(初期のHULFTはメインフレームからUNIXへ一方向のみ通信されるものだった)。

当時、当社にC言語の技術者はいなかった。そこでHULFTバージョンアップに携わってもらうべく、5名の新入社員を配属してもらい、入社早々、外部の研修に半年間放り込みUNIXとC言語を基礎から徹底的に教育してもらった。そのメンバーには、石橋、田辺、前田等がいた。

ただ残念ながら、このPOSシステムは途中で開発を中止したため、HULFT2が採用されることはなかった。
HULFT2の一号ユーザーはクレディセゾンだった。

メインフレームでTCP/IP通信ができるのは当時では稀少だったと記憶している。それゆえ、HULFTの利便性に気づいた企業からは徐々に引き合いが来るようになり始めていた。そんな折、富士通のメインフレームOS、XSPに対応できる仕様で作ってほしいと依頼があった。ビジネスチャンスには即対応する。そのために、汎用機メンバーが半年ほどポーティングを行った。

また、販路を広げるためWindowsNT版の開発にも着手した。しかし、WindowsNT版の技術者はいなかった。富士通の出向から帰ってきた田中と、入社2年目の竹井、伊藤、五十嵐など5名に担当してもらいUNIX版からポーティングした。この頃は若い社員に新しい技術を一から勉強させて対応機種を広げていく、というのが私達のやり方だった。

この時期は、お客様の要望さえあれば、UNIXは稼動機種(OS)の拡大を積極的に実施していた。他機種へのポーティングが容易になる様、コーディング方法も工夫して、2週間で他機種へのポーティングを行なったこともあった。

機能面で優れたHULFTをお客様は選んだ

しかしこの頃、販売はまだまだ伸び悩んでいた。玉田、中薗、畠山等が営業を展開していたものの、直販以外の販売網がなかったこともあり、たしか20社程度にしか導入されていなかった。

今でこそファイル転送市場で約80%(2017年富士キメラ総研調べ)のシェアと言われているが、当時結構な競合がいてコンペも厳しかった。

話は前後すると思うが、ある頃から営業がコンペで勝てないという話をよくするようになった。HULFTの方が多機能なのだが、価格で勝負ができなかった。そこで、HULFTを売れる製品に育てると意気込んでいた柴山社長(当時)の鶴の一声で、HULFT Dashという機能を限定した廉価版を作ることになった。これは一本も売れなかった。

なぜなら、コンペに勝ちさえすれば、その後の商談で、HULFT Dashではなく、機能面で優れたHULFTをお客様は選んだからだった。

HULFTは、お客様に選ばれる製品に成長しつつあった。

第3話
拡張機能

横河電機株式会社からHULFTのMVS(IBM)版がほしいと打診を受けた。どうしても汎用機とUNIXのデータ転送をやりたかったらしい。ただ当時、当社にIBMメインフレームはなかったため開発は難しいと判断し、ソースを公開するから先方で作らないかと逆に提案することになった。

しかし、富士通メインフレームとIBMメインフレームのTCP/IPのAPIが大きく異なったため、開発ではかなり苦労したようだった。当社も協力し、IBM版への拡張を実現することができた。

また、横河インフォテック(当時)は販売も行いたいということで、当社の最初の代理店になった。

ほどなく、横河電機の取締役から、外販するなら国内メーカーの汎用機は一通り押さえておくべきだというアドバイスを頂いた。

そこで、日立版の開発が始まることになる。しかし、さすがに日立本社には集配信パッケージがあった。そのため、本社での開発は難しく、情報処理子会社の日立情報ネットワーク(当時)を紹介された。IBM版のソースを公開し、日立情報ネットワークに日立版の開発を依頼し、その流れで現在の日立情報システムズ(当時)とも代理店契約が結ばれることになった。

いかに差別化するか、がこの商品の今後を決めると私たちは思っていた

HULFT3は、競合を意識し、機能・性能の向上を目指して作られた。HULFT2では、汎用機とUNIX間に限られていた双方向の配信を、異機種間で問題になる漢字変換などの双方向機能を見直し、Windows版もリリースすることで当時市場にあったほとんどのオープン機種間とメインフレーム間で転送可能にした。Managerによる集中監視も開始し、お客様にアピールできる機能を大幅に追加した。

HULFT3がリリースされた頃、血液検査などの臨床検査を主事業とする企業からOS/400を200台導入する予定だから、OS/400版をつくってほしいと依頼があった。

しかし、社内にOS/400の経験者はいなかったため、またまた谷内、槌屋等3名を外部研修に出すことになった。しかし、世間でOS/400で適用されるソフトウェアをTCP/IPとC言語を組み合わせて作っている人など、当時はいなかった。研修といってもOS/400の操作方法と、C言語のコンパイルを学ばせる程度しかできなかった。後は手探りの中、独習しながら進めてもらうしかなかった。開発用の機械も借用し、10ヶ月程度で開発した。

いかにマルチベンダーに対応するか、いかに差別化するか、がこの商品の今後を決めると私たちは思っていた。だからこそ「お客様のリクエストには答える」という気負いで仕事をしていた。

皆、HULFTを売れる商品に育てるのに必死だった。

第4話
嬉しい悲鳴

ハードウェアメーカーの口コミで知名度があがったのか、さまざまなユーザーから開発要請が飛び込むようになった。

あるお客様からは、店舗サーバである富士通のKシリーズ200台とTANDEMのNonstop機の接続に対応したいとのオファーが届く。また別の会社からも工場サーバのKシリーズとメインフレームを繋ぐのにHULFTが欲しいと依頼があった。

Kシリーズには、C言語が無くCOBOLでの開発となった。COBOLには、レコード長を動的に変更できないなど汎用的なプログラムを開発するには問題があった。それら技術を持つメーカ系の富士通関西システムズ(当時)に開発を依頼した。

TANDEM版は、お客様がFEPで使用しているタンデムコンピューターズ(当時)のTANDEMと伝送したいとの依頼があったのが最初である。その後TANDEMにUNIX系の機能を搭載したので、UNIX版をポーティングしてほしいとの依頼がタンデムコンピュータからあった。しかし、NonStopに関するノウハウや開発用のコンピュータが無い事(とにかくTANDEMは高かった)から仕様を公開するので作らないかと持ちかけた。

社内で技術を習得しなければならないかと一時は腹を括ったが、メーカーである富士通やタンデムコンピュータが自社体制を構築し開発を支援してくれる事になった。特にタンデムコンピュータは、開発後のバージョンアップや販売をも推進すると申し出てくれたお陰で展開が早まった。HULFTに対する高いニーズを徐々に実感できるようになってきたのはこの頃である。

この時、HULFTの開発体制は15名に満たなかった

HULFTのバージョン3のリリースは1994年であるが、この頃、サーバーコンピュータとしてUNIX機の利用が急加速していた。バブル崩壊後であったが、技術革新が進み、企業のIT投資は増加し続けていた。

コンピューターメーカーは乱立しそれぞれが元気で、独自のUNIX機をリリースしていた。NECのEWS、FujitsuのDS、HITACHIのHIUX、DECのAlpha、NCRのSVR4……。1台数千万する機種も珍しくなかったが、ユーザーはこれら多種多様なコンピュータをこぞって導入し始めていた。

そんな環境の中、既に汎用機でHULFTを導入していたお客様が、新しいUNIX機を導入することが進んだ。当然、HULFTでの接続を進めたいと考える。HULFTが対応していない機種にもぜひ対応して欲しいとオファーが数多く舞い込むようになった。

お客様のリクエストはチャンス! とばかり、開発部隊は毎日しゃかりきになってポーティングを進めた。

納品数も急激に増える。

当時は開発者が自分のパソコンでソフトウェアをCD-Rに焼付け、ラベルを貼り、箱詰めして出荷していたが、それでは間に合わなくなってしまった。CD-R書き込み専用機を導入したり、出荷専任チームを立ち上げたのもこの頃である。

この時、HULFTの開発体制は15名に満たなかった。残業続きで繁忙な毎日が続いたが、常に新しい事にチャレンジできる環境、メンバーを充実させていた。

第5話
そしてデファクトへ

1995年、Windows95の登場で、インターネットの利用に火がついた。

パソコン、モデム、一般電話回線があれば、誰でもデータ通信が可能となり、これが企業間でのデータ交換を加速させると思った。

その頃の企業間通信は、IBMが1960年代に開発したBSC手順を基礎としており、インターネットでの利用はもちろん想定されたものでは無かった。特に主流だったのが、全国銀行協会が推奨した「全銀手順」、日本チェーンストア協会(JCA)が定めた「JCA手順」の2種類である。当社のお客様のシステムでもたいへんに良く使われていた。

HULFTの機能は、それらの古い手順での通信環境を凌駕するようになっており、お客様からも、HULFT+インターネットを企業間での通信に利用したいという声が上がるようになっていた。やや時代遅れとなっていた「JCA手順」の代わりにHULFTを利用してもらえば、日本の企業間通信環境は飛躍的に向上する! その思いを持って、板野、玉田は、当時の流通業界団体を訪れた。

「JCA手順に変わる手順としてHULFTを使ってくれませんか!」

全く想像しなかった答えが返ってきた。

「こんなもの勝手に作って!」。

団体側も独自のインフラを作る気でいたのだ。しかも流通業界に閉じた手順として、である。

この事で、逆にHULFT部隊に火が点いた。

バージョン4にしてやっと「売れている!」と実感できた

インターネットで利用できるようにし、業界を選ばない標準通信手順を作り上げる。これが次期HULFTの大きなコンセプトであった。Firewall対応、EDIでのCSV変換機能等、今では当たり前になっている多くの機能がこのバージョンで実装された。

この頃からHULFTの販売促進活動も強化していった。ロゴカラーは挑戦的な赤とし、日経コンピュータなど日経BP社発行のIT専門誌への広告掲載を積極的に展開するとともに、オープンシステムEXPOといったIT系展示会にも必ず出展し、「HULFT」という製品ブランドの浸透を図っていった。

出荷の際にメディアやマニュアルを入れる箱(パッケージ)にもこだわった。デザインを当時イタリアで活動中であったデザイナーのミツオ・ミヤハラ氏に依頼し、複数のデザインの中からHULFTのイメージを象徴するものを開発、営業、営業推進といった関係者全員で決定した。奇抜なデザインであったが、HULFTへの強い思い入れを関係者全員が自然に持つきっかけとなっていった。

当社としては初めて東京プリンスホテルにてパートナー様、ユーザ様をご招待し、製品発表会を実施、こうして1996年「HULFT4」は世に送り出された。また、この時からHULFTにバージョンナンバーを一体化させたロゴを採用し始めた。

商品は、商品化するという思いと商品が完成したら開発だけでなく、販促・営業・サポートが車の4輪としてうまく機能しないと成功しない。このバージョンは手ごたえが違った。業界問わず引合いが引っ切り無しに入ってくる。壁の高かった銀行業界にも適用され始めた。バージョン4にしてやっと「売れている!」と実感できたのだ。

販売開始から6年が経過した1998年、出荷累計は10,000本、700社に到達。

HULFTはついに「業界標準」の看板を掲げられる製品にまで成長したのである。「多くの人に汎用的な製品を提供した方がいいのではないか」という思いはこうして適ったのである。

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