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能力ある人材の活用を可能にした、家康の際限なき寛容さ

家康が、カッとなる性格を自覚し、反省と学びを怠らなかった人物だということはよくわかりました。では、そのことが、冒頭で先生のおっしゃった、家康が天下人になれた要因だという「情報の表と裏を読むことで青天井といえるほどの寛容性を発揮し、先見性や能力のある人間を無条件で使えたこと」とどうつながるのですか?

ようやく本題ですね。これまでお話ししてきた通り、家康が誰よりも優れていた点は、自分の性格や立場をわきまえて、至らない自分が生き残るにはどうしたらいいかを常に、真剣に考えたことです。家康は反省と学びを通じて、自分がカッとなる性格で、先見性もないということを、徹底して思い知っていました。信長や秀吉はおろか、多くの家臣にさえ、能力的には敵わないということを、嫌というほど理解していたのです。
そうした家康が、乱世を生き残るにはどうすればよいか。自分より優れている者を使うしかなく、そのためには「(のき)を貸して(おも)()を取られる」という覚悟で寛容さを発揮し、すべてを委ねる以外にない、と悟ったのです。

でも、自分より能力の高い人間に力を与えるのは怖いですよね。裏切られたら自分がやられてしまうわけですから。

そうです。だから普通、最初はできても、途中で怖くなり、最後まで貫徹することができません。しかし、ただ一人、家康にだけはそれができたのです。祖父と父を家臣に殺され、自身は物心ついたときには人質の身、長じては信長・秀吉への従属を余儀なくされ、その中で大事な嫡男をも殺さなければならなかった家康。そのような絶望的な人生を送ってきた人間だからこそ、生涯にわたる猛省の末に達し得た境地と、いえるかもしれません。
そして、際限なく寛容さを発揮しようとする上で重要なのが、「情報の表と裏を読み取ること」だったのです。ひとつの情報を理解するとき、表面的にはこう見えるけれども、それは一方向だけからの見方であって、必ずその裏の見方もあるということを、家康は常に考えたわけです。

たとえば家康は、どういう場面でどのような見方をしたのでしょうか?

先ほどの、信康切腹の一件を例に挙げて解説しましょう。まず、信長が信康の切腹を家康に要求したのは、自身の後継者である織田(のぶ)(ただ)より武将として優れていた信康を、早めに排除しておきたかったから。また、酒井忠次が信康を庇わなかったのは、先に述べた通り、信康に恨みがあったから。これが情報の表の見方です。これだけを見れば、家康としては、信長の要求を拒絶することも、怒りに任せて忠次を処断することも、十分にとり得る選択肢でした。
しかし、それは物事の一側面に過ぎないことを、家康は理解していました。いくら信長が上位であっても、同盟者である家康に対して、いきなり「お前の嫡男を殺せ」というわけがありません。信長は、まず徳川家ナンバー2の忠次を呼びつけて尋問し、探りを入れることにしました。すると忠次は、信康の内通をあっさりと認めてしまったのです。その様子を見た信長は、もし家康が我が子かわいさに自分の要求を拒絶したら、家康の報復を恐れた忠次は謀叛を起こし、自分のもとへはしるに違いない、と見て取りました。実際、忠次もそのつもりだったはずです。家康は、そういう裏の見方をしっかりとできる人物でした。
そうなると家康としては、信長の要求を受け入れる以外に選択肢はありません。なおかつ、自分の嫡男を間接的に殺した張本人であり、本来なら不倶戴天の敵である忠次ですらも許し、信任することで、忠次を引き留めて今後もその能力を利用できるだけでなく、他の家臣や大名に対して、計り知れないほどの好影響を与えるであろうことも、家康は即座に読み取ったのです。

なるほど……。

実際に忠次は、もともと徳川家を凌駕する家格と実力を有しながら、謀叛を起こすこともなく家康に仕え、関ヶ原の戦いの前に家康が権力を握った段階で、徳川四天王のトップに立ちました。普通ならとうていあり得ない話です。
家康と忠次のその後の関係について、興味深い逸話が残っています。家康より12歳年長の忠次は、引退する際、家康に「これからは、どうか私の長男をかわいがってください」とあいさつしました。すると家康は、「お前でも自分の長男はかわいいか」と返したというのです。この言葉を家康が、「よくも信康を殺してくれたな」という皮肉を込めていったなら、いずれ酒井氏は謀叛を起こしたかもしれません。しかし家康は、満面に笑みを浮かべてこのセリフがいえたのです。そして実際、酒井氏はその後、徳川幕府の譜代筆頭として多くの大老・老中を輩出し、幕末まで続きました。絶望の中で培った、家康の底しれぬ寛容さを端的に示すエピソードではないでしょうか。

では、そんな家康の言動から、現代のビジネスパーソンはなにを学ぶべきでしょうか?

変化が激しく、先を見通すのが難しい現代において、「大局観=先見性」を持つことは重要ですが、自身にその能力がないと思えば、寛容性を発揮して周囲の有能な人材に任せるのもひとつの手であること。また、その際に役に立つ新しい情報を獲得、蓄積し続ける必要があるということですね。
実は、家康ほどの悟った人間でも、最後には、この「情報を蓄積し続ける」という部分で失敗してしまったのです。家康は死の間際、「私が死んだら、生きていたときと同じようにせよ」といい遺しました。徳川幕府はこの遺言を遵守して、いわゆる鎖国によって国外からの情報を独占して、外へは遮断し、貨幣ではなく米による経済システムを改めなかった結果、恒常的な財政難を招き、幕末には幕府とすべての藩が破産状態となりました。天下人になるという成功体験をもってピリオドを打ち、最後の最後に生涯最大の失敗をしてしまった家康から、情報というものは獲得し続けなければならないということを、われわれは学ぶべきかもしれません。

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