鎌倉幕府の“事業承継”を成し遂げた「実務派」(ほう)(じょう)(よし)(とき)にみる令和のリーダー像
~弱小・北条氏の執権体制は巧緻な情報戦略によって確立された~

pc_visual_interview_5_kaku_03-v2.png mob_visual_interview_5_kaku_03-v2.png

NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公として、にわかに脚光を浴びている鎌倉幕府の2代執権・北条義時。源頼朝を旗揚げ時から支え、鎌倉幕府の成立に多大な貢献を果たしたばかりか、承久(じょうきゅう)の乱では朝廷軍を打ち破り、武家と朝廷の力関係を一変させるという、日本史上前例のない業績を上げながら、頼朝や源義経などと比べ、これまであまり注目されてこなかった人物だ。
歴史家・作家の加来耕三氏は、弱小勢力だった北条氏が幕府のトップに上り詰めた背景には、義時の並々ならぬ情報戦略があった、と指摘する。義時がその手法をいかにして身につけ、どのように使ったのか、加来氏に解説してもらった。

▼加来耕三氏のプロフィール
奈良大学文学部史学科卒業。学究生活を経て、昭和59年(1984)3月に、奈良大学文学部研究員。現在は大学・企業の講師をつとめながら、歴史家・作家として独自の史観にもとづく著作活動をおこなっている。『歴史研究』編集委員。内外情勢調査会講師。中小企業大学校講師。政経懇話会講師。
・代表的著作(新刊)
 『戦国武将学 歴史に学び未来を読む』(松柏社・2021)
 『渋沢栄一と明治の起業家たちに学ぶ 危機突破力』(日経BP・2021)
・監修・翻訳等(新刊)
 『コミック版 日本の歴史 第79巻 小早川秀秋』(企画・構成・監修・ポプラ社・2021)
 『歴飯ヒストリア』(つちや書店・2021)
・その他
 2021年10月9日より、加来氏が解説をつとめる『偉人・素顔の履歴書』(BS11・毎週土曜夜8時)放送スタート。

源頼朝を生きた手本とし、情報分析・活用術のすべてを学んだ北条義時

過去2回でお話しした通り、歴史学では、「なぜそうなったのか?」という“問い”を常に持つことが大切です。北条義時という人物についていえば、真っ先にこういう疑問が浮かんでくるでしょう。すなわち、伊豆のほぼ無名の豪族・北条(とき)(まさ)の次男に過ぎなかった義時が、源頼朝の死後、なぜ鎌倉幕府を合議制によって運営する有力御家人・十三人衆の一人として、父とともに名を連ね、さらには父を失脚させたあと、2代執権として幕府の支配体制を確立することができたのか、という問いです。
いうまでもなく、時政の長女・北条政子は頼朝の妻であり、北条氏は頼朝の外戚でした。とはいえ、1180年、頼朝が平家打倒を掲げて挙兵したとき、それにつき従った北条氏の兵力はわずか50騎ほど。そのような小豪族の出身である義時が、並みいる他の大豪族を抑えて幕府のトップとなり、歴史に残る偉業を成し得た理由とはなんだったのでしょうか。​​​​​​​

確かに、頼朝が旗揚げ直後の石橋山の戦いに敗れて再挙を図った際、2万騎を率いて馳せ参じたとされる上総の大豪族・上総(かずさの)(すけ)(ひろ)(つね)などと比べると、北条氏は霞んで見えないほどの弱小勢力ですよね。本当にどうして義時は、あれほどの業績を上げられたのでしょう?

それを明らかにするためには、まずその前提となる、もうひとつの大きな疑問について考えなければなりません。それは、そもそもなぜ頼朝は、関東の武士団を結集させて平家を倒し、鎌倉幕府を開くことができたのか、という問いです。というのも、義時という人は、頼朝の(いえの)()、今でいう秘書のような立場から、主君の政治や外交、情報収集・活用などをつぶさに脇で見て学び、その手法を踏襲することで多大な成果を上げたと考えられるからです。​​​​​​​

なるほど。ではまず、頼朝が幕府を開くに至った経緯からご解説いただけますか。

はい。ご存じの通り頼朝は、(せい)()源氏の流れをくむ河内(かわち)源氏の棟梁・源(よし)(とも)の三男として生まれました。義朝は1160年の平治の乱で敗れて逃走中に殺され、頼朝は捕らえられて伊豆へ配流されています。その後、頼朝は、挙兵までの実に20年間、流人として政治的にはなすところなく時を過ごしたのです。その間に頼朝は、政子と婚姻関係を結び、一応、北条氏の後ろ盾を得てはいましたが、実兵力をほとんど持っていませんでした。​​​​​​​

弱小である北条氏の支持でさえ取りつけたいと考えるほど、無力だったわけですね。

そうです。1180年、()(しら)(かわ)法皇の皇子である(もち)(ひと)(おう)が、平家追討の令旨(りょうじ)を諸国の源氏に向けて発した際、実兵力を持たない流人の頼朝という存在は、おそらく後白河法皇の頭の片隅にさえなかったでしょう。「頼朝は(せい)()源氏の(ちゃく)(りゅう)ではないか」という人がいると思いますが、それはあくまで頼朝が、自身の正統性を訴えるために流した宣伝に過ぎません。()()源氏の武田(のぶ)(よし)(しな)()源氏の源(()()(よし)(なか)など、武家棟梁として頼朝と同格で、実力面では遥かに優る武士は、ほかにいくらでもいたのです。かたや頼朝は挙兵時、たかだか数百程度の兵しか集められず、しかも緒戦の石橋山の戦いで完敗し、その後は逃げ惑っていただけ。にもかかわらず、なぜ東国の武士団は、こぞって頼朝のもとへ馳せ参じ、彼を推戴したのでしょうか?​​​​​​​

学校では、「東国の武士団は、源氏の棟梁である頼朝なら、平家を倒したあかつき、自分たちの土地を保証してくれると考えたから」と教わった気がしますが、もっと実力のある源氏の棟梁はいたわけですよね。とするとなぜ……?

簡単に申し上げますと、頼朝は東国の武士団をペテンにかけたのだ、と私は考えています。実は以仁王の令旨というのは、東海・東山(とうさん)・北陸三道諸国の源氏へ向けて、「平家を討て」と決起を促すだけのものであって、特定の集団・個人に対してなんらかの地位や役割を付与するような内容ではありませんでした。ところが頼朝は、東国の武士団に対して、「私は後白河法皇に東国の始末をすべて任されました。令旨にそう書いてあります」と、自分にとって都合のいい嘘をついたのだと思います。そして、「私についてくれば皆さんの土地を保証します。さらに、平家討伐で活躍すれば、その分の土地も差し上げます」と約束したのでしょう。いわば、情報操作によって東国の武士団を引っ掛けたわけですね。
ちょっと考えれば、後白河法皇が犯罪者である流人の頼朝に対して、官位も回復させずにそのようなことをいうはずがないことぐらいわかったはずです。しかし、当時の東国の武士団は、世慣れない田舎者の集まりなので、コロッとだまされてしまったのでしょう。一方、引っ掛けた側の頼朝は、13歳まで官位を持ち、京都で過ごしたため、朝廷のやり方をある程度理解していた上、伊豆での20年間の流人生活の中で、東国の武士団がなにを求めているかを、嫌というほど理解していました。​​​​​​​

武士たちは、土地を保証してくれる者をなによりも欲している。しかも、それが後白河法皇のお墨つきの人物となれば、武士たちは必ずその人のもとへ集まってくる、と。

そうです。頼朝のすごいところは、そういう情報分析・活用の仕方を、実によくわかっていたことです。そして、まさにそれこそが、頼朝にできて平清盛にできなかったことでした。清盛は、妻・(とき)()の妹・(しげ)()を後白河上皇に嫁がせて(のり)(ひと)親王(のちの(たか)(くら)天皇)を生ませ、さらに自分の娘・(のり)()と高倉天皇の間に生まれた(とき)(ひと)親王を(あん)(とく)天皇としました。要するに武士としてではなく、貴族として従来の院政のやり方を踏襲し、武士たちの「土地を保証して欲しい」という期待には、まったく応えなかったわけです。それが清盛の最大の失敗であり、平家政権が短期間で潰れてしまった要因でした。​​​​​​​

頼朝は、やり口はともかく、武士たちの支持を得ようと努めて成功したからこそ、平家を倒し、鎌倉幕府を開くことができたわけですね。

その通りです。そして、頼朝のそういうやり方をすぐそばで見ていたのが義時でした。彼は次男なので、頼朝の挙兵時、北条宗家ではなく、その後、分家の()()家を継いで江間()(ろう)()()(ろう))を名乗っています。つまり、頼朝の身近にいながら、よくも悪くも父・時政と比べれば背負うものの小さい、客観的に情報を分析することのできる立場にいたわけです。また、年齢的にもまだ10代と若く、さまざまなことを学んで吸収できる状態でした。すべて偶然とはいえ、そこが義時の一番得をしたところですね。
義時は頼朝の挙兵後、加勢を要請する使者として、時政とともに甲斐源氏の武田氏のもとへ派遣されています。そこで例の頼朝のペテンの効果を目の当たりして、「なるほど、情報とはこのように使うのか」と学んだに違いありません。そして実際、彼のその後の行動を見ると、頼朝からいかに多くのことを吸収したのかがよくわかるのです。