歴史上の偉人から学ぶデータ活用術
ナイチンゲールに学ぶ7つの教訓

visual_interview_history_01.png

▼丸山健夫氏のプロフィール
武庫川女子大学教授。博士(農学)。京都大学農学部卒業。米国ルイジアナ州立大学客員准教授などを経て現職。朝日新聞の天声人語で紹介された『ナイチンゲールは統計学者だった!』のほか、PHP新書『風が吹けば桶屋が儲かるのは0.8%!?』、『ビギナーに役立つ統計学のワンポイントレッスン』などの統計学書、幕末を科学の視点から紹介した『ペリーとヘボンと横浜開港』、『筆算をひろめた男』などの歴史書を執筆。アマゾンプライムビデオで、原作・主演のドラマ『福田理軒』を公開、テレビ歴史番組『ジモレキTV』の監修・主演など、文筆から動画制作、ライブ配信まで幅広く活躍する。​​​
※役職や所属は取材時のものです。

ナイチンゲールに学ぶ7つの教訓

 

ナイチンゲールといえば看護師の鏡。クリミア戦争での献身的な英国陸軍兵士たちへのケアで、国民的英雄となり、近代的な世界初の看護師学校を開き、赤十字の創立にも影響を与えた歴史的偉人です。しかし、その行動を支えたのが統計学であり、そのデータ処理の結果を多くの人にわかりやすく伝える手段として、世界初のカラーの円グラフを考案したという事実はあまり知られていません。彼女を偉大にならしめるために大きく作用したのは、実は緻密な統計的なデータ分析力とその表現技術である感性豊かなビジュアルプレゼンテーションの力です。彼女の人生をなぞりながら、データの扱いを生業とするビジネスパーソンが得られる7つの教訓を『ナイチンゲールは統計学者だった!』の著者である丸山健夫さんに語っていただきました。

1. データ分析の基礎となった高い語学力とセレブの教養

データ分析やその結果の表現の基礎となるのは、やはり語学である。理系人にとっても幅広い知識が必要とされるが、中でも論理的な文章を書ける力は大切だ。コンピュータのプログラムも、一種のストーリー性を持った文章である。その意味ナイチンゲールは、語学教育を受けるベストな環境にあった。
フローレンス・ナイチンゲールは、1820年5月12日、イタリアのフィレンツェで生まれた。両親は英国の富豪である。イタリアへ新婚旅行に出かけ、ナポリ滞在中に長女が、そしてフィレンツェで次女のナイチンゲールが誕生した。ナイチンゲールのファーストネームであるフローレンスは、フィレンツェの英語名である。約三年にもおよぶ新婚旅行から帰国したとき、家族は四人になっていた。
新郎は新婦のために、夏涼しい英国の中部に一軒の豪邸を建てた。だが新婦は冬の寒さとロンドンへの遠さに不満を漏らす。やさしい夫は冬暖かい南の海岸近くにもう一軒豪邸を用意した。一家は季節により移動し、舞踏会の季節にはロンドンでホテル住まいを楽しんだ。ナイチンゲールはホテルの部屋で、いとことピアノレッスンを受けたという。
当時のセレブの子女は、学校に行かずに家庭教師から学んだ。彼女にとっての家庭教師の先生は、ケンブリッジ大学出身の父であった。教育熱心な父は娘にギリシア、ローマの歴史や哲学、古典文学を教えた。彼女は十代でギリシア語やラテン語をマスターし、哲学者プラトンの本を訳して読み、古代ローマの政治家キケロの哲学を分析した。
イングランドの大学といえばケンブリッジとオックスフォードしかなかった時代。父は最高の先生であり、その教育熱心さのおかげで、彼女は千ページにもおよぶ本さえも執筆できる力を持った。

Lea Hurst(1軒目)(左上)/Embley(2軒目)(左下)

2. 数値やデータを客観的にあやつる数学力

19世紀の数学の本

文系人は数学が苦手とは誰が言ったか。ギリシア、ローマの古典をたしなむナイチンゲールは、突如として数学がしたいと両親に申し出る。それは二十歳の頃であった。文系人バリバリの父親としては守備範囲外であったから、歴史や哲学をもっと勉強しようと言った。何事にも派手好きで、娘をセレブ仲間へお嫁として送り出すのが人生最大の目標であった母親も、花嫁修行をしなさいと大反対。彼女がなぜ数学がしたかったのか。理由があった。
1837年9月、ナイチンゲールが十七歳のとき、一家は一年半にもおよぶヨーロッパ大陸への旅行へと出る。自慢の豪邸を改築するので、どうせなら旅に出ようというわけだ。一家はフランス各地を巡り、北イタリアからスイスへも向かった。最後はパリで娘たちの社交界デビューを見届ける。だが両親がえらかったのは、各国で病院や救護施設、慈善団体などを訪問していることだ。ナイチンゲールは、政治の違いや人々の貧富の差などの多様性を肌で感じる。そして訪問した国でいろいろな資料を収集した。その集めた資料の整理に数学を使いたかったのだ。
当時、ベルギーのアドルフ・ケトレという学者が、出生率や死亡率、犯罪率などを計算して地域を比較することを始めていた。つまりは近代統計学が生まれようとしていた。ナイチンゲールは、ケトレの数学でデータを処理したかった。
「そんなにやりたいなら、やらせてあげたら」と、おばさんが助け舟を出した。やるからには超一流でと、オックスフォード大学から博士級の先生が連れて来られたそうだ。
数学は論理である。だがナイチンゲールのイメージは、やさしさという感性だ。論理と感性という相反するモノのかけ算が、のちに革命をもたらす。