逆境に立ち向かった伊達政宗の生き方とは?
~そこには情報にもとづく卓越した分析力と決断力があった~

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出羽・陸奥の戦国大名、伊達家17代当主として、奥州に覇を唱えた伊達政宗。豊臣秀吉・徳川家康という天下人と同時代にありながら、高い政治力を発揮して、大大名として確固たる地位を築き、「もう20年早く生まれていれば天下を取れた」「遅れてきた戦国武将」などと惜しまれることの多い、非常に知名度の高い英傑だ。
しかし、歴史家・作家の加来耕三氏は、政宗の本当のすごさを理解している人は少ない、と指摘する。本インタビューでは、政宗の情報戦略のすさまじさと、その力を身につけるに至った背景について、加来氏に語ってもらった。
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▼加来耕三氏のプロフィール
奈良大学文学部史学科卒業。学究生活を経て、昭和59年(1984)3月に、奈良大学文学部研究員。現在は大学・企業の講師をつとめながら、歴史家・作家として独自の史観にもとづく著作活動をおこなっている。『歴史研究』編集委員。内外情勢調査会講師。中小企業大学校講師。政経懇話会講師。
・代表的著作(新刊)
 『戦国武将学 歴史に学び未来を読む』(松柏社・2021)
 『渋沢栄一と明治の起業家たちに学ぶ 危機突破力』(日経BP・2021)
・監修・翻訳等(新刊)
 『コミック版 日本の歴史 第79巻 小早川秀秋』(企画・構成・監修・ポプラ社・2021)
 『歴飯ヒストリア』(つちや書店・2021)
・その他
 2021年10月9日より、加来氏が解説をつとめる『偉人・素顔の履歴書』(BS11・毎週土曜夜8時)放送スタート。

天下人との対峙に見る、伊達政宗のすさまじき情報戦略

伊達政宗がすごい人物だったというのは、歴史にある程度興味のある人なら、誰でも知っていることですよね。彼の本拠地である奥州は、あの時代、政治の中心である京都と比べて50年は遅れている、といわれていましたが、政宗一人の出現によって、あらゆる面で一気に中央に近いレベルにまで引き上げられました。政治・経済面はもちろん、茶道などの文化面においても、確かに彼はすごい能力を持っていました。でも、単にそうした事実を知っているだけでは、彼の本当のすごさを理解しているとはいえません。結局のところ、政宗にしか成し得なかった、最大の偉業とはなんだったと思いますか?

辺境に生まれ、しかも豊臣秀吉・徳川家康という天下人のいる、乱世から徐々に終息へと向かいつつある時代を生きたにもかかわらず、人生の後半に至るまで、天下取りの野望を持ち続けたことでしょうか。

前半はいいですね。しかし、後半で述べるべき政宗の真の偉業とは、「生き残ったこと」。それに尽きると思います。というのも、当時の人々、とりわけ天下人である秀吉・家康は、ことあるごとに政宗を疑っていたわけですよね。「あいつは危ない、天下を狙っているぞ」と。そういう世評を背景として、抹殺された大名はたくさんいますし、実際に政宗も、殺されてもおかしくない危機的局面を何度も迎えました。にもかかわらず彼だけは、そのことごとくを見事に乗り切りました。それどころか最終的には、徳川政権下で仙台藩初代藩主となり、3代将軍・徳川(いえ)(みつ)の後見人という、実質的には副将軍に近いポジションにまで上っています。これは本当に、すごいことですよ。

おっしゃる通りですね。しかし、なぜ政宗にだけ、そのようなことができたのでしょうか?

それが今回のテーマですね。前回と同様、その答えを先にひと言でいってしまえば、「(たぐい)まれな情報の収集力と分析力、それにもとづく決断力があったからだ」ということになります。その力がどういう場面で、どのように発揮されたのか、なぜ彼だけがそういう力を身につけられたのかについて、考えていきましょう。それを明らかにすれば、現代のビジネスパーソンも、そこから学べるわけですからね。

それではまず、政宗が危機を脱した事件としてよく知られている、1590年の秀吉による北条氏・小田原征伐に政宗が遅参し、秀吉を激怒させたというエピソードからご解説いただけますか?

はい。秀吉から小田原征伐への参陣を命じられた政宗は、なかなか腰を上げなかったのですが、その理由は大きく2つあったといわれています。1つは、もともと伊達家が政宗の父である伊達(てる)(むね)の時代から、北条氏と同盟関係にあり、どちらにつくべきか迷いがあったから。そしてもう1つは、政宗が自領を離れれば、確執のあった実弟の伊達小次郎((まさ)(みち))が反乱を起こすかもしれない、という危惧があったからです。政宗は後顧の憂いを断つために、小次郎を殺し、かつ北条氏の敗色濃厚という戦局を見極めるのに時間を要し、小田原へ着いたとき、すでに戦は終わりかけていました。当然ながら秀吉は激怒して、政宗に箱根で(ちっ)(きょ)することを命じます。切腹を申し渡される可能性も十分にあった政宗が、そのときになにをしたかをご存じですか?​​​​​​​

確か、死装束をまとって秀吉との謁見に臨んだのですよね。その命がけの大芝居を秀吉に気に入られて、なんとか許されたとか。

そうですね。ここで考えなくてはならないのは、果たしてそういうパフォーマンスが誰にでも通用したか、ということです。たとえば、もし相手が、質実剛健を旨とする家康だったら、まず間違いなく無視されて、殺されていたことでしょう。相手が派手好きの秀吉だったからこそ、通用したのです。つまり政宗は、豪胆な賭けに出たのではなく、事前に秀吉に関する情報を集め、その性格を十分に把握した上で、このパフォーマンスなら秀吉に受ける、という確信に至ったのだと考えられるわけです。
それだけではなく政宗は、蟄居の際、秀吉の代理として詰問に訪れた徳川家康・前田利家(ともにのちの豊臣政権の五大老)に対して、「蟄居中の時間を利用して茶道を習いたいので、千利休を紹介してください」と頼んでいます。当然、そのときに政宗は、家康・利家の話す内容から秀吉の本心を推察しつつ、自分の言葉を聞いて二人がどう反応し、それが秀吉にどう伝わるかをすばやく読み取ったはずです。そして、仮に秀吉が「政宗を殺せ」といったとしても、家康・利家が自分の保護者となってくれるよう、根回しをしたに違いありません。
そのように政宗は、第二、第三の仕掛けを用意する、重厚な情報戦略を用いたからこそ、度重なる危機を乗り切ることができたのです。​​​​​​​

なるほど。政宗は翌年の1591年にも、他国の一揆を扇動した証拠とされる書状を秀吉に握られ、窮地に陥っていますよね。そのときにも、同様の情報戦略があったのですか?

はい。秀吉から上洛を命じられた政宗は、今度は死装束の上に十字架まで背負っていきました。しかし秀吉は、さすがに同じ手を二度も食うかと相手にせず、政宗を喚問しました。それに対して政宗は、自分のものとされるその書状を偽物だ、といい張ったのです。自分の書状にはいつも、()(おう)(現代の自筆のサインに相当、政宗は(せき)(れい)という鳥を書いていた)の目の部分に針で穴をあけている、しかしこの書状には穴がない、ゆえに偽物です、疑うなら今までにお送りした書状を確かめてみてください、と弁明しました。確認すると、確かに秀吉宛の書状にはすべて、目の部分に穴があいていたため、政宗は許されたのです。
政宗は万が一、自分の書いた一揆扇動の書状が、明るみに出たときのことを考え、穴をあけないでおいたのですね。普段から、穴をあける場合とあけない場合とを巧みに使い分けていたのです。そのように、最善、次善にとどまらず、三の手、四の手まで常に準備しておく、実に用意周到な情報戦略を政宗はとっていたわけです。​​​​​​​

その後、政宗は家康からも謀叛の疑いをかけられました。その際に見せた情報戦略とは?

政宗は、長女の五郎八(いろは)(ひめ)を家康の六男である松平(ただ)(てる)に嫁がせました。1603年に征夷大将軍となった家康が、その地位を嗣子の徳川(ひで)(ただ)(のちの2代将軍)に譲ったとしても、実力さえあれば娘婿の忠輝が3代将軍となり、政宗は義父の立場で実質的に天下を取れる可能性があったわけです。しかし忠輝が、1615年の大坂夏の陣に遅参したという理由で、蟄居を命ぜられたことで、事態は暗転します。忠輝が家康に対して、「実は、義理の父である政宗は豊臣方で、遅参したのはそのためなのです」と嘘をつき、政宗に責任を押しつけたのです。家康はその言葉を信じなかったものの、これを機に、老い先短い自分にとって、唯一の心配ごとだった政宗の存在を除こうと、秀忠に仙台への出陣の準備を命じました。​​​​​​​

もしそれが実行されれば、政宗は攻め滅ぼされていたわけですね。

そうです。政宗はこの情報をいち早くつかむと、急ぎ軍議を開いて対応を検討しました。どう考えても、このタイミングで討たれるようないわれはない、そんな失敗は絶対に犯していない、と政宗が考えていたところへ、駿河にいた家康の側室で女官でもある()(かつ)(別称・お(かじ))から、早馬で手紙が届いたのです。それには「一刻も早く、家康公と対面すべし」とあり、弁明すればまだ間に合う、という意味のことが書かれていました。
実は、於勝の産んだ家康の末子・(いち)(ひめ)と、政宗の嫡男・(とら)(きく)(まる)(のち2代仙台藩主伊達(ただ)(むね))が婚約していたことから、政宗と於勝の間には長年の交流がありました。市姫はわずか4歳で夭折してしまったものの、政宗はその後も、於勝との手紙による交際や進物を絶やさなかったのです。常に鮮度の高い情報をもたらしてくれる於勝への信頼から、政宗は、一両日の思案の末、家臣の反対を押し切って、家康のいる駿河へおもむくことを決意しました。
駆けつけた政宗を見て、病床にあった家康は胸襟を開きました。誤解が解けたあと、家康は、「くれぐれも、秀忠をよろしく頼む」と政宗にいったそうです。そのような、卓越した情報収集力と分析力、その情報を踏まえた決断力こそが、政宗の「生き残る力」の源だったのです。