6. 多くの人々の心を動かす情熱と愛情

ビクトリア女王勅撰委員会報告書

トルコのスクタリに臨時的につくられた陸軍病院が、ナイチンゲールの仕事場だった。ここで彼女は、献身的な働きをし、患者となった兵士たちにも愛された。だが仕事を続けるうち、ある種の疑問が彼女の心に芽生え、成長していった。戦地の病院では、戦闘による負傷が原因で亡くなる兵士よりも、病院内の不衛生による伝染病の院内感染で死亡する兵士のほうが、はるかに多いような気がする。病院内の衛生状態さえよければ、死ななくてよい兵士が数多くいるのではないか。彼女は病室の衛生状態に気を配り、換気をよくし、ランプを持って夜中の見回りを続けた。ナイチンゲールの活躍は、戦地特派員のリポートにより本国でも連日伝えられ、彼女は国民の英雄となった。だが戦後、ナイチンゲールは帰国を待つ歓迎ムードの国民から逃れ、偽名を使ってドーバー海峡を渡った。たったひとりで自宅に帰った彼女には、まだやるべきことがあったのだ。それは、戦地の病院での衛生の欠如という陸軍の失敗を明らかにし、陸軍衛生の改革を行うことであった。死ななくてもよかった若者たちを想い、二度とこのようなことが起こらないようにと願った。そのため、ビクトリア女王に面会し、陸軍の衛生改革をめざした女王直属の委員会を設置してほしいと懇願した。陸軍を変えられるのは、国王しかなかったのである。
まだ、女性に参政権すらなかった十九世紀。政治の表舞台に立てなかった彼女に代わって、その委員会の委員長を引き受けてくれたのは、シドニー・ハーバートだった。彼女は統計学、衛生学、建築学などの専門家を集め、その実質的な運営のすべてを行った。その活動の原動力は、目の前で死んでいった数多くの兵士たちへの想いであった。二度と過ちを犯してはならない。彼女の熱意が女王をはじめ、多くの人々を動かす。

7. 人々の心に訴える、論理と感性をかけ合わせたプレゼンテーション

ナイチンゲールの著書(左)/ 円グラフの元データ(右)

ナイチンゲールの本当の意味での業績は、戦後のこの陸軍衛生の改革にあるといえる。この経験がベースとなって、その後の看護学での活動へとつながった。陸軍の失敗を証明するため、彼女は客観的な統計データを利用した。戦地で死んだ兵士たちを、負傷、伝染病、その他という三つの原因別の層に分類した。そしてそれぞれの時系列的変化を導き出した。二十歳のころの数学の学習がここで生きた。
そして数字だけが並んだ表では人々の心に真実が伝わらないと感じて、原因別に色を変えた世界初のカラーの円グラフを作成した。
1つの円は、時計の文字盤のイメージである。一周12個の目盛りに1年12ヶ月をあてはめる。2つの円で2年間の死亡率の変化を表現する。右の時計の9時の場所が四月、10時が五月で一周まわって、8時の場所が翌年の三月だ。つづいて左の時計の9時に移ってまた四月から一周まわることで2年間となる。
緑色に着色された部分が伝染病、赤色が負傷、そして黒色がその他の原因による死亡率を表している。グラフに示すことで、赤色の負傷より緑色の伝染病のほうが圧倒的に多かったと、直感的にわかる。彼女は円グラフの作り方の試行錯誤も行った。死亡率の大きさを、円の中心からの距離で表すと、コウモリの羽を広げたように見える「バッツ・ウイング」。さらに死亡率の大きさを月別の扇型の面積に対応させ、薔薇の花のようにした「ローズ」と呼ばれた形式である。
ナイチンゲールのヴィクトリア女王への報告書では、カラーの円グラフや棒グラフ、数々の図面を駆使して、分析結果を直感的でわかりやすいかたちにしている。このような絵の書物への挿入は、多大の手間や費用がかかるので当時は一般的ではなかった。彼女は人々の心にダイレクトに響く、ビジュアルプレゼンテーションを心がけた草分け的存在であった。

バッツ・ウィング(中心からの距離が死亡率の大きさに対応)

ローズ(中心からできる扇型の面積が死亡率の大きさに対応)

最後に

晩年のフローレンス・ナイチンゲール

ナイチンゲールの七つの教訓をまとめてみよう。
まずは語学力だ。母国語の訓練が基本だろう。文学や音楽などの芸術も文章を豊かにしてくれる。昔はお金持ちでないと、学者にはなれなかった。だが我々のまわりには、かつてセレブしか味わえなかったさまざまな教養が溢れている。
ふたつ目は数学だ。「絶対、感染症による死者のほうが多いです!」と、ナイチンゲールがいくら連呼しても説得力はない。客観的な数字とそれをあやつる数学力があったからこそ、人々を動かせた。
三つは異分野への応用だ。ナイチンゲールの憧れのケトレ先生は、平均計算を天文学からひきずりだし、人間社会という別の分野に適用した。細分化された現代の学問分野では、それぞれ独自に発展した技術がある。異なる分野に適用すれば、新たな展開も出よう。 四つは、落ち込んだときも、つぎのチャンスを見逃さないことだ。意外とそんなとき、身近につぎが見えてくる。中でもひとの出会いは大切だ。ナイチンゲールは、失意の中でシドニー・ハーバートと出会っている。
五つ目は「タイミングが重要」ということだ。自分のまわりの環境は、日々すべて変化し、流動している。だが「ここぞ」というチャンスが来たら、全力で取り組む。
六つは、熱き心だ。死なずにすんだはずの若者を想い、ナイチンゲールは陸軍改革に情熱をそそいだ。人間に対する愛情を忘れず、何事にも熱意を持って取り組むこと。
最後は、論理と感性のかけ算である。ナイチンゲールは、人間の感性に訴えるプレゼンテーションに努めた。無機質な論理も、感性や感情という人間味あふれる要素が入れば、さらに生きる。そんな論理と感性のかけ算を、ナイチンゲールは教えてくれた。