3. 異分野への応用から新しい価値の創出へ

アドルフ・ケトレ(1796-1874)

ナイチンゲールが憧れたアドルフ・ケトレは、1796年、ベルギーのヘントという町で生まれた。幼いときに父親を亡くし、苦労して大学の教員となり、当時はまだベルギーになかった天文台の創設運動をした。「それじゃあ、あなた自身でやってみなさい」とばかり、先進的なパリ天文台に派遣され、有名なラプラスなどにも教えてもらう。帰国後「さあやるぞ」と天文台の建設を始めたのだが、フランス七月革命などの政情不安で天文台はなかなか完成しなかった。そこでケトレは、宝の持ち腐れとなっていた天文学の知識を、人間の社会の問題に応用してみようと考えた。
天文学では、同じ観測を何回か行い、その合計を観測回数で割るという平均の計算がよく使われていた。ケトレはその平均計算を、人間の身長や体重にあてはめてみた。さらに体重を身長の二乗で割った値を考えた。これが現在でもメタボの判定に使われるBMIという値である。BMIは、分母が身長という距離の二乗、分子に重さがきているので、これも天文学のニュートンの万有引力の法則の式がヒントになったにちがいない。そしてBMIの集団における平均値を計算し、その平均値こそ、身長と体重のベストのバランスだとした。日本では22とされている。 1835年にケトレが出版した「人間について」という本により、天文学の分野のいち計算技術で あった平均は、人間社会にデビューした。天文台がなかなか完成しなかったことで、ケトレは天文学のデータ処理技術を他分野へ応用した。ひとつの分野でのデータ処理の方法論が、他分野で花開いたよい事例である。
ケトレによって人間社会に広まった平均や何々率という考え方。これにナイチンゲールは着目した。1860年、ナイチンゲールは、尊敬するケトレ先生と出会い、著書をプレゼントされる。

4. 悲観の中でも夢をあきらめない気持ちと一期一会の出会い

シドニー・ハーバート(1810-1861)

ナイチンゲールは、二十五歳のとき、今度は看護の仕事をしたいと両親に打ち明けた。ところが当時の病院の看護の仕事は近代化されておらず、理解は得られなかった。彼女にとっての悩みの季節が始まる。気落ちしている彼女を心配し、家族は気分転換にと知り合いの夫妻のローマへの避寒旅行に同行するように勧めた。これが彼女の運命を変えた。ローマで若き政治家シドニー・ ハーバートに紹介されることになる。看護の仕事を反対されなければ、この出会いはなかったわけだ。世の中、悲観の中にチャンスの芽もある。
しかし帰国後も、ナイチンゲールは鬱のような生活をふたたび続けた。そして三十歳をすぎ、とうとう家出同然にドイツのテオドア・フリートナーという牧師がつくった世界初の看護師訓練施設へと向かった。看護師となるための訓練を受けたあとは、パリの病院を巡って今度は看護師の人事管理を学んだ。そして帰国後、ハーバート夫人のお世話で、婦人のための療養施設の施設長となったのである。1853年8月、ナイチンゲール三十三歳の夏であった。ナイチンゲールは採用の面接試験で、ナースコールや温かい食事を運べるリフト、病室の温水が出る蛇口を提案したという。彼女が自分の夢を叶えたのは三十歳をすぎていた。人間いくつになっても夢をあきらめてはいけない。「ナイチンゲールだって」と想う心が大切であろう。
そしてシドニー・ハーバートとのローマでの出会いが役に立つ。ドイツでの訓練後、パリの病院で看護師の人事管理を学ぼうとしたのは、帰国後のポストを想定してのことだろう。憂の季節のちょっとした巡り合いを、彼女は見過ごすことはなかった。彼女の努力と熱意が、ハーバート夫妻に伝わったのだろう。

5. チャンスを全力で掴むための決断力と行動力

スクタリの陸軍病院

ナイチンゲールがやっと看護の仕事に就職できた2ヶ月後のこと。1853年10月、ロシアとトルコの間で戦争が始まった。クリミア戦争だ。英国はこの戦争でトルコに味方し、翌年3月参戦する。ところが戦況はよくなかった。苦しい戦いが続く中、1854年10月12日、ナイチンゲールの運命を変える新聞記事がタイムズに掲載された。
「戦地では負傷者に対して、なんら適切な処置がとられておらず、医師が不足している。そればかりかナースがまったくいない」記者が戦場からリポートする草分け的な記事であった。この記事を見たシドニー・ハーバートはすぐに、この仕事ができるのは彼女しかいないと直感した。ハーバートはこのとき戦時大臣という役職にあったのだ。そしてナイチンゲールも、これこそ自分の天命だと悟った。ふたりの想いを伝える手紙が同時に出された。1854年10月21日、ナイチンゲールが団長となった政府派遣の四十人ほどの看護師団が、ロンドンを後にした。記事が出て九日後のことだ。ふたりのすばやい決断と行動力は見習うべきであろう。
シドニー・ハーバートとのローマでの出会いがなかったら、今のナイチンゲールは存在していないと言ってよい。だが、政治家とも十分にわたりあえ、上流階級の出身で教養もあり、しかも看護の実務や看護師の人的管理もできる人物は、ほかには見つからなかったことも事実であろう。シドニー・ハーバートにとっても、また英国民にとっても幸運だったにちがいない。
世の中のプロジェクトは、いろいろな条件が重なりあい、つねにそれらが変化する中で進行している。そのとき、何かがぴったりと合う瞬間がある。それを見逃さず、ここぞと思うときには、全力で立ち向かうべきだと、ナイチンゲールは教えてくれているように思える。