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情報活用で逆境を乗り越えた先に、政宗が見た景色とは

そこで浮上するのが、なぜ政宗だけが、そういう力を身につけられたのか、という問いかけですね。

そうです。私は、政宗が徹底した劣等感を持っていたから、そして、それを克服しようという“負けじ魂”を持っていたからだ、と考えてきました。政宗という人は、幼少時に天然痘で右目を失明したということもあって、もともと非常に内向的な性格でした。逆に、実弟の小次郎は二枚目で、誰からも愛される人柄だったため、実母である(よし)(ひめ)の愛情はそちらへ注がれ、政宗は疎まれていました。辺境に生まれた劣等感、片目が不自由であることへの劣等感、母に愛してもらえない劣等感、自分に大した能力がないという劣等感。彼の中には、ありとあらゆる劣等感が詰まっていたのではないでしょうか。
しかし、彼はそれを克服しようと、がんばることができました。その原動力のひとつと考えられるのが、息子の劣等感を克服させるため、あらゆる手を尽くしてくれた実父・輝宗の恩に報いたい、という強い思いでした。輝宗は劣等感の塊である息子に、伊達家中興の祖と称えられる室町時代の9代当主・(だい)(ぜんの)(だい)()政宗と同じ名を与え、側近として(かた)(くら)(かげ)(つな)ら有能な家臣を、師として臨済宗妙心寺派の高僧・()(さい)(そう)(おつ)をつけた上で、早々と家督を譲りました。この父なくして、政宗という人物はあり得なかったと思います。

偉大なお父さんだったのですね……。

しかも政宗は、家督を継いだわずか1年後、敵の捕虜となった父を目の前で殺されてしまいました。自分を買ってくれた父への恩義。「政宗」という名を背負った重み。絶対に伊達家を潰してはいけない。なにがなんでも生き残る。それが政宗のアイデンティティになったのではないでしょうか。
逆境続きの状況から生き残らなければならない政宗にとって、自分の直面している問題の本質がどこにあるかを問いかけることは、不可欠な作業であったはずです。そして、その上で情報というものは、非常に役に立ちます。国力の低い奥州にあり、もともと強い力の背景のない政宗にとって、生き残るための手段は、情報を収集・活用することしかなかった、ともいえます。「自分は劣等感に突き上げられて生きてきた、ここで死ねるか」という思いが、必死に情報を集めて分析し、その上で決断する、類まれな「生き残る力」を生み出したのではないでしょうか。

先ほどの於勝の一件のように、政宗は非常に筆まめで、たくさんの手紙を書いたそうですが、やはり情報収集という観点から意識的にそうしていたのでしょうか?

政宗は、元来そういうことが好きだったのだと思います。劣等感があって、生き残ることを考える人間は、それに見合う努力をする以外にないわけですが、政宗は、どうせやらなければならないなら、明るく、楽しくやろう、と考えていたのではないでしょうか。だから、右目を失明していたのに、有力者の集まるサロンに顔を出し、皆にあいさつし、手紙もたくさん書いていろいろな人と交流する。そういうところが、政宗の美点だと思いますね。
政宗は、自分を毒殺しようとしたと噂される母に対しても、一所懸命に手紙を書いています。1593年の朝鮮出兵の際には、「たいしたものではないのですが、いろいろ歩き回ってこれはと思ったものがあったのでお送りします」などと言い訳しながら、母へ手紙とお土産を送っています。劣等感を克服したのでしょうね。

そこから現代のビジネスパーソンはなにを学ぶべきでしょうか?

劣等感を昇華させ、より高い次元で花開かせること。現状に甘んじることなく、自らを成長させたいと望む人でなければ、その先の景色は見えてきません。逆にいうと、現状に不満を持ち、問題意識を抱えることが、自分を磨くことにつながるわけです。本当の幸せのわかる人間というのは、不幸を経験したことのある人間だけなのです。情報を使える人というのは、情報の価値をわかっている人ではないかと思いますね。

そういう意味では、お母さんにまめに手紙を書いた政宗は、幸せをつかめたのではないか、という気がします。

つかめたと思いますね。自分のほうからアプローチをした人間だけがそれをつかめるし、最後には勝つ。どうせ同じことをするのであれば、嫌々するよりも楽しくしたほうがいい。それを教えてくれるのが、政宗という人物ではなかったでしょうか。

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