SPECIAL TALK

HULFT発案者と現開発・企画責任者で語る、
HULFT30年の軌跡

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1993年に異なる環境下においてファイル転送による業務連携を可能にするソフトウェアとして登場したHULFTも、2023年に30周年を迎えた。多くの企業で採用されているHULFTだが、これまでさまざまな変遷を経て、現在のHULFTが形作られている。そこで、HULFT誕生に深くかかわったエンジニアや現在の企画・開発責任者に集まっていただき、HULFT誕生の背景とともに、お客さまと歩んできた30年の軌跡を振り返っていきたい。そして、これから歩んでいくであろうHULFTの将来像についてその想いを聞いた。

HULFT発案・開発者

板野 豊

開発統括

石橋 千賀子

HULFT開発責任者

宇佐美 佑

プロダクトマネージャー

樋口 義久

1セットも売れなかった~HULFTの船出

30周年を迎えるHULFTですが、そもそもどんな経緯でHULFTが誕生したのか、その端緒について教えてください。

板野もともとHULFTを作る以前、他社に販売するソフトウェアを開発していたのですが、実はそのなかにファイル転送の仕組みも存在していました。HULFTをパッケージとして開発することになったのは、当時の上司が“パッケージで儲けていこう”と声を掛けたことがきっかけで、具体的な構想にはなっていませんでした。当時の私たちは、パッケージ化して販売するビジネスモデルは初めての試みだったのですが、儲かる仕組みづくりの一環として、まずはパッケージとして販売できるプロダクトを作ろうということになったのです。

当時の時代背景から考えると、どんなパッケージ製品が求められると考えたのでしょうか。

板野中小企業ではオフコンなどが導入されていましたが、大手企業のシステムはメインフレーム中心で構築されていた時代です。ちょうどダウンサイジングが叫ばれており、UNIXをはじめとしたオープン系の仕組みが広がりつつありました。時代の流れを考慮するとこれからは、メインフレーム以外の技術力を身につける必要があったのです。当初メッセージ転送の仕組みを考え、業務連携を念頭に考えると、ファイルで受け渡ししたほうが業務システムは連携がしやすいのではと考えたのです。

実際にファイル転送の仕組みは企業ニーズにもマッチしているものだったのでしょうか。

板野売れるものを作るというよりは、お客さまが困っているものは何か、今後ダウンサイジングするなかで困るであろうことに焦点を絞りました。私自身、HULFTを作る前からお客さまの業務システムの開発に奔走していたこともあり、実際の現場で何があれば一番喜んでもらえるかということを開発者目線で常に考えていました。

それがファイル転送としてのHULFTの原点なわけですね。

板野最初のバージョンは、メインフレームからファイル転送してオープン系システムでデータを有効活用できるような使い方で、DBに自動的に情報を格納することでアプリケーションでも活用できるDB連携含めたパッケージを作りました。ソニーが開発したUNIXワークステーションのNEWS(ニューズ)とともに、Unifyと呼ばれるDBを使ったのが最も初期のプロダクトでした。残念ながら大きな投資ができなかったため、対応するUNIXやDBはマイナーのものからの船出でした。

実際に当時のHULFTのセールスは好調でしたか?

板野最初のプロダクトであるHULFT1はメインフレームからUNIXへファイル転送する仕組みで、その6ヵ月後には双方向でファイル転送できるHULFT2が出ています。ただし、HULFT1は体制的にも十分でなかったため、個社に手売りのような形で紹介しており、実際には1つも売れませんでした。しっかり販売ルートを整えて売り始めたのが、おそらくHULFT2に入ってからだったと記憶しています。ファーストユーザーは調査データを提供する企業様でしたね。

しっかりと販売ルートが整った段階で、ようやく販売が始まったと。

板野確かに体制は整ったのですが、そんなに売れませんでした。私自身としては売れたつもりでいたのですが、パッケージビジネスとして会社が期待していたような数字ではなく、当時の社長から販売停止の判断が下されそうになったことも。そんな時に救ってくれたのが、企画や営業のメンバーでした。もっと続けさせて欲しいと社長に直談判してくれたことがきっかけで何とか継続させることができたのです。後日談ですが、当時の社長が次の社長に送った、自分の判断は間違えていたと書いた手紙を見せてもらったことがあります。

初期の開発はかなりご苦労されましたか。

石橋HULFT2のころは、とにかく板野がわがままを言うわけです(笑)。営業同行でお客さまのところから帰ってくると「これに対応してくれたら買ってくれるって」と要望を聞いてくるわけですが、それが毎日続きました。対応スケジュールも2週間でやって欲しいと板野から指示が飛ぶ。その要望に応える際、社内に開発機がないために、お客さまのところに出向いてUNIXマシンを借り、その機種に対応したモジュールを作ってリリースする、なんてことをずっと続けていた記憶があります。要望が多いのは、お客さまが使っているUNIXへの対応です。当時はメーカーごとにUNIX OSが異なっており、それらに全部対応せざるを得ない状況でした。

それは大変ですね…ご苦労されるなかで、石橋さんを支えていた想いはどんなところにあったのでしょうか。

石橋お客さまの名前を聞くことがうれしかったですね。例えば受注をするたびに、聞いたことがある、テレビで見たことがあるお客さまのリストが少しずつ挙がってくる、それだけで楽しかった。当時は開発者が納品用のROMを作成していましたが、そこに著名なお客さまの名前が書かれたシールを貼る、そんなことに喜びを感じていました。

HULFT飛躍のときがやってきた!

お客さまに寄り添ってHULFTが進化していくわけですが、大きな転換期となったのはどのあたりだとお考えでしょうか。

板野もともと富士通のメインフレームに重きを置いていましたが、横河電機様からIBMのメインフレーム対応を無償で作らせてほしいという要望がきたことが1つの転換期です。そこから日立のメインフレームやWindows版対応などを進めたことで、HULFT3が生まれました。HULFTが多くの異なるプラットフォーム間をファイル転送可能な仕組みとして成熟した大きなポイントの出来事でした。

石橋ちょうどこの時期は金融再編の真っただ中で、再編に伴って複数の銀行が1つに合併する際に、各銀行が持っているメインフレームをつなげるニーズが急増しました。社会的な追い風もあって、HULFTが市場から注目されるようになったのです。その当時は、よく金融機関のお客さまから品質面でお叱りを受けたことを思い出します。短期間でモジュールを開発して現場に展開すると障害が発生してすぐに直す、みたいなことを毎日行っていましたね。

その後はどんな経緯でバージョンを重ねていかれたのでしょうか。

板野その後も、短期間で多くのニーズを吸収すべく、足りない機能を加えていきました。ファイル転送だけではできない機能に対してはオプションを山ほど開発しました。当時からインターネットにてファイル転送する時代がやってくることを想定していましたので、インターネット接続オプションなども作りました。実際には、開発体制が維持できない理由で撤退したオプションも数多くありますが、いずれにせよお客さまに育てていただいたという想いが一番強いです。

対応していくことでお客さまから信頼を勝ち得た、そのポイントはどこにあるとお考えですか。

石橋1つは「逃げないこと」というポリシーを大事にしたうえで、叱られても何とか対応するということは常に心掛けていました。また、やらないと決めたことは確実に伝えていました。全ての要望に応えるわけではなく、HULFTとして汎用化する必要がないと考えたものはやらないと。このバランスがよかったのかもしれません。HULFTというパッケージを提供する企業として、それは守ろうと開発当初からずっと継続したポリシーの1つです。

1998年ごろには出荷累計が10,000本を超えるなど、まさに業界標準として大きなパッケージになった時期ですね。

石橋このあたりからメインフレーム以外のものを積極的に使っていくという潮流が大きくなったことで、多くのお客さまからご支持いただけたのではないでしょうか。HULFT4のときにマーケティングにも大掛かりな投資をして、しっかり認知度を向上させていこうという施策と相まって、多くの人に知っていただくことができました。HULFT4までやってきたことが、間違えていなかったということの表れだと思っています。

HUFLTの生みの親 西川 伸次 氏が執筆。対談では語りきれない、HULFT開発物語

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