先見性ゼロの徳川家康が、どう戦国を生き抜き天下を取れたのか?
~寛容さを発揮して人材活用を可能にする「情報の表と裏を読む力」~

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徳川家康は1600年に関ヶ原の戦いに勝利して、1603年に征夷大将軍として江戸に幕府を開き、その後の265年にわたる泰平の世の礎を築いた。少年時代には近隣大名の人質となり、大名として独立後も織田信長・豊臣秀吉への従属を余儀なくされた苦難の経歴から、家康に対して、忍耐強く思慮深いイメージを抱いている人が多いのではないだろうか。
しかし、歴史家・作家の加来耕三氏によると、家康の本来の性格は、むしろそのイメージとは正反対であったという。そして、それを克服しようと努力し、その際に情報を活用したことが、結果的に家康の天下人への道を開いた、と加来氏は指摘する。家康の真の人物像とはいかなるもので、どうして天下を取れたのか、加来氏に解説してもらった。

▼加来耕三氏のプロフィール
奈良大学文学部史学科卒業。学究生活を経て、昭和59年(1984)3月に、奈良大学文学部研究員。現在は大学・企業の講師をつとめながら、歴史家・作家として独自の史観にもとづく著作活動をおこなっている。内外情勢調査会講師。中小企業大学校講師。政経懇話会講師。
・代表的著作(新刊)
 『教養としての歴史学入門』(ビジネス社・2023)
 『徳川家康の勉強法』(プレジデント社・2023)
 『家康の天下取り 関ヶ原、勝敗を分けたもの』(つちや書店・2022)
・監修・翻訳等(新刊)
 『読むとなんだかラクになる がんばらなかった逆偉人伝 日本史編』(監修・主婦の友社・2023)
 『コミック版 日本の歴史 第87巻 結城秀康』(企画・構成・監修・ポプラ社・2023)
・その他
 加来氏が解説をつとめる『関口宏の一番新しい中世史』(BS-TBS・毎週土曜昼12時)が放送中。

「カッとなる性格」を抑え込むため、猛省と学びを続けた徳川家康 

企業経営や組織運営を語るとき、不可欠なのはリーダーシップだ、とよくいわれます。では、そもそもリーダーシップの要諦とはなんでしょうか? その答えは人それぞれで、これが正解というものはありませんが、私なら「大局観」と答えます。いい換えれば「先見性」ですね。たとえば、5年後にこうなる、10年後にはこうなる、と先を読んでピタリと当てられる経営者がいたら、性格的に多少問題があっても、皆がついていくでしょう。この人のいう通りにしていれば大丈夫だ、と思えるわけですから。
そういう意味で、“戦国三英傑”と呼ばれる織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人を比べたとき、もっとも先見性があったのは、間違いなく信長です。仮に彼を100とすると、そのあとを継いでほぼ真似ただけの秀吉は10ぐらい。そして、家康はゼロです。家康は、軍略から兵法、立ち居振る舞いに至るまで、多くを(たけ)()(しん)(げん)から学びました。政治にせよ軍事にせよ、家康は誰かを「真似る=学ぶ」ことを基本とし、自ら新しくなにかを始めるということがほとんどありませんでした。

先見性ゼロで、よく天下を取れましたね……。

問題はそこなのです。信長の政権は、天下布武の途中までで実質天下を取ったと認めたとしても、1代で終わりました。秀吉は、息子である豊臣秀頼と合わせて2代です。それに対して、先見性ゼロの家康は、自分も含め15人の将軍を輩出し、265年の泰平の世を生み出しました。では、家康だけが備えていて、信長や秀吉にはなかったリーダーシップとはなんだったのでしょうか? もっといえば、“信長型”や“秀吉型”の先見性のある英雄・偉人というのは、洋の東西、古今の別なくたくさんいますが、先見性ゼロの“家康型”で天下を取った人物はいません。なぜ、家康だけが例外となれたのでしょうか?​​​​​​​

それが今回のテーマ、いい換えると、先生がこれまでのインタビューで再三その大切さを強調してきた“歴史への問いかけ”ですね。

そうですね。今回も先にひと言で答えを述べるなら、「情報の表と裏を読むことで青天井といえるほどの寛容性を発揮し、先見性や能力のある人間を無条件で使えたこと」こそが、家康の最大の強みだったのではないか、と私は考えています。それはどういうことかを解説するには、そもそも家康とはどういう人物だったかを整理し、理解しておく必要があります。まずは、そこから始めましょう。​​​​​​​

わかりました。家康の人物像というと、「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という句で表現されているように、とにかく忍耐強いイメージがありますよね。

確かに家康は、いつも誰かに服従し、耐え忍ぶ人生を50代半ばまで送りました。少年時代には()(わり)(現・愛知県西部)の織田氏、次に駿(する)()(現・静岡県中部)の今川氏の人質として計12年を過ごし、19歳でやっと大名として今川氏から独立したあとも、信長に頭を押さえられ、その死後も秀吉に臣従せざるを得ませんでした。そのように長年抑圧されてきた人間は、従順で思慮深くなるのが普通であり、多くの人が家康に対してもそういうイメージを抱いているのも無理はありません。
ところが、さまざまな文献を読むと、家康は必ずしもそういう性格になっていなかったことがわかります。血でしょうか? むしろ本質的にはカッとなりやすい性格だったことが、さまざまなエピソードからもうかがえるのです。​​​​​​​

それは意外です。たとえばどんなエピソードがあるのですか?

よく知られているのは、1573年、()()(現・山梨県)の武田信玄が徳川領国の()(かわ)(現・愛知県東部)・(とおと)(うみ)(現・静岡県西部)方面へ侵攻したことで起きた()(かた)()(はら)の戦いの話です。双方の兵力については諸説ありますが、だいたい武田軍2万4000に対し、徳川方は織田氏の援軍と合わせても1万2000と半数程度。しかも武田軍のほうがはるかに精強でした。そこで家康は当初、徳川氏の本城・浜松城での籠城戦の準備を進めましたが、果たして何か月耐えられるか、という極めて悲観的な状況でした。一方の信玄は、家康を浜松城からおびき出して野戦に持ち込むべく、次のような噂を流して挑発しました。武田軍は浜松城を無視して進軍し、上方で織田軍と雌雄を決するつもりである、と。家康の家臣たちは、これで当面は籠城を続けられる、織田氏とタイミングを合わせれば挟撃戦も可能になる、と胸をなでおろしました。ところがそのとき、激怒したのが家康です。家臣の(おお)()()(ひこ)()()(もん)(ただ)(たか)の『三河物語』にその際の家康のセリフが書かれていますが、現代語で要約すると、「自分の庭先を横切られて黙っていられるか!」と吠えたというのです。これは戦略でも戦術でもない、単なる感情論です。要するにカッとなったのですね。そして家康は、家臣の猛反対を押し切って城から出て武田軍と戦い、兵力の半数を失うという大敗を喫しました。信玄の挑発にまんまと乗せられたわけです。​​​​​​​

冷静で慎重という、家康のイメージからはかけ離れた言動ですね。

人間は、追い詰められると本性が出るものですが、家康の場合、危機のつど、このカッとなる性格が表に出てくるわけです。そしてそれは、どうも徳川家の血筋によるものであったように見受けられます。というのも、家康の祖父・(まつ)(だいら)(きよ)(やす)と父・松平(ひろ)(ただ)は、ともに20代半ばで家臣に殺されていますが、両者ともカッとなると見境がなくなる性格で、家臣の恨みを買っていたことが殺害の主因となっていたからです。さらに、家康の(ちゃく)(なん)(のぶ)(やす)も同様の性格で、家臣や領民に対してしばしば非道な行いをしたといわれています。最終的に信康は21歳のとき、信長から武田氏への内通を疑われ、信長の要求によって父・家康から切腹を命じられました。そうなったのも、家康第一の重臣である(さか)()(ただ)(つぐ)が、かつて信康から公衆の面前で罵倒されたことを根に持ち、信長から信康の内通について喚問された際、信康をまったく庇わずに事実と認めたからだとされています。​​​​​​​

そのように代々受け継がれてきたように見える自身の性格を、家康はどう考えていたのでしょうか?

十分に自覚し、カッとなるのを我慢して抑え込むすべを、長年の人質生活や、信長・秀吉の(せい)(ちゅう)を受ける環境の中で身につけたと考えられます。もし家康が、そういう常に追い詰められている境遇になく、我慢というものを覚えていなければ、祖父や父、嫡男と同じように、若くして殺されていたかもしれません。
家康がカッとなる性格を懸命に抑えようとしていたことを象徴するのが、「爪を嚙む」という彼の有名な癖です。激昂しやすい人間は、追い詰められ、頭が真っ白になったとき、よく無意識に爪を嚙みます。家康はまさにその典型で、普段、人前ですることはありませんが、三方ヶ原の戦いと1600年の関ヶ原の戦い、この2回だけ、大勢の家臣の前で爪を嚙んだと伝えられています。そして、どちらの場合にも我慢の限界に達し、三方ヶ原の戦いでは、無謀にも城から打って出て敗れてしまいました。また、関ヶ原の戦いでは、西軍(豊臣方)に属しながら東軍(徳川方)への内通を約していた()(ばや)(かわ)(ひで)(あき)の軍勢に向けて、鉄砲を撃ちかけました。これは家康が、なかなか()()を鮮明にしない秀秋に業を煮やし、鉄砲で脅せば裏切りを決断するに違いない、と読み切った上で取った行動だとされています。しかし、それは結果論で、真相は違うと私は思います。現にそのとき爪を嚙んでいたことからも、カッとなって見境がなくなり、「やってしまえ!」と鉄砲を打ち込んだら、たまたま秀秋が震え上がって寝返りを決断しただけだと思うのです。​​​​​​​

抑圧された境遇の中で、思慮深さや忍耐強さを身につけてはいたものの、本質は変わらなかったわけですね。

そうです。ただ、家康のすごさは、そのようにキレるつど猛省し、乱世を生き残るためにどうすればいいかを懸命に学ぶ姿勢を持ち続けたことです。家康の肖像画のひとつに『徳川家康三方ヶ原(せん)(えき)画像』、通称「しかみ像」というものがあります。これは、三方ヶ原の戦いで惨敗した家康が、憔悴する自分の姿を戒めのために、わざわざ描かせたものだといわれていますが、世界中どこを探しても、そのようなことをしたのは家康しかいません。冒頭で述べたように、敵将である信玄をも手本として、徹底的に反省と学びを続けた現れといえるでしょう。