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弱小・北条氏の生き残りをかけ、「学び」と「情報活用」を武器に戦い続けた義時

頼朝と義時には、多くの共通点がありました。ひとつは、「学ぶ」という行為が非常に好きだったことです。頼朝の生涯を見ると、政治にせよ外交にせよ、のちの織田信長や西郷隆盛に見られるような独創や創意工夫というものが、ほとんどないことに気づきます。おそらく頼朝は、流人として政治の中心・京都から遠く離れ、読書や写経をひたすら続ける20年の環境の中で、個人の知恵や発想には限界があるから、必要に応じて過去の叡智から最良のものを選択すればいい、ということを悟ったのではないかと思います。
そのように、頼朝が古典を師として学んだのに対し、義時は頼朝を生きた手本として、情報分析・活用の仕方を学びました。頼朝と同様に義時も、独創性がほとんどない代わりに、ものごとから距離を置いて客観的に分析し、自ら判断してよりよいものを選んだり、改良したりする能力には抜群のものがありました。義時は、頼朝あるいは時政を補佐する立場から、目の前のさまざまな問題を処理せねばならず、さまざまな方法の中から可能性のもっとも高いものを選び、解決・達成に全力を注ぎました。そのように義時は、結果的に頼朝・時政によって、徹底した実務派として鍛え上げられたわけですね。

頼朝と義時のそのほかの共通点というのは?

背景となる力を持たず、とにかく生き残ることを常に考えなければならなかったことです。そもそも頼朝は、以仁王の令旨を受けてもしばらく挙兵せず、事態を静観していました。おそらく頼朝は、やる気がなかったのだと思います。頼朝は冷静で慎重な人間であり、兵を持っていないのに挙兵しようなどと考えるはずがないからです。
結局、頼朝が挙兵したのは、政子との婚姻に関連して伊豆(もく)(だい)(代官)の(やま)()(かね)(たか)の怒りを買ったことが、直接のきっかけだったと考えられます。頼朝と政子が恋仲となったことで、平家の不興を買うことを恐れた時政が、兼隆と政子の縁談を進めていたところ、政子は頼朝のもとへ逃走。頼朝は、激怒した兼隆との対決を避けられない状況に追い込まれ、やむなく以仁王の令旨にかこつけて決起したのではないか。要するに頼朝は、ただただ目前の危機を脱しようとしただけで、その後のすべてが後づけだったわけです。

義時という人も同じだった、と。

はい。北条氏のように兵力のない、常に危機的な状況にある家が生き残るためにはどうすればいいか、ということだけを必死に考え続けなければならない人生でした。そして、なにか使えるものはないかと一所懸命に考えたとき、義時の周りにあったのは、源氏の棟梁である頼朝と、情報だけだったのです。​​​​​​​
(きゅう)()(ねこ)を噛むといいますが、どれだけいい情報を持っていても、追い詰められ、それを心から必要とする人間でなければ、懸命に、有効に活用することはできません。平家が負けたのは、まさに強大であったがゆえに、世評や武士たちの声などの情報を軽視し、油断したからです。それに気がついたときには、もう手遅れでした。情報が活かせて使えるのは、そうなる前の段階なのです。​​​​​​​

1221年の承久の乱は、義時の生涯で最大の危機だったとされますが、やはり同様のことがいえますか?

はい。義時は、3代将軍・源(さね)(とも)の死後、その後継者をめぐって()()()上皇と激しく対立しました。そして、ついに後鳥羽上皇は倒幕の兵を挙げ、義時追討の(せん)()を諸国の武士団へ向けて発したのです。義時には、少なくともその時点では、朝廷と軍事的にことを構える気はなく、話し合いで条件闘争を続ける腹積もりだったのでしょう。
しかし、義時は徹底した実務派です。親幕派の公卿・西(さい)(おん)()(きん)(つね)(けい)()である()(よし)(なが)(ひら)らからの急報によって、上皇挙兵の動きをいち早く察知しました。そして、戒厳令を敷いて追討の宣旨を携えた密使を捕らえ、東国の武士団に宣旨を回さないことに成功しました。情報戦に勝ったのです。もし、まったく状況のわからないまま朝廷軍を迎え撃っていたら、幕府軍は敗れていたことでしょう。
義時は、本心では朝廷に勝てると思っておらず、やりたくなかっただろうと思います。なにしろそれまでの日本史上、朝廷に弓を引いて勝った者はいなかったのですから。しかし義時は、ことここに至った以上やむなしと腹をくくり、常のごとく目先の問題に対処するべく、東国の武士団に動員令を出して万全の態勢を整え、嫡男・北条(やす)(とき)を総大将として京都へ軍勢を送りました。一方、朝廷側は強大で、負けるなどとはさらさら思っていませんから、源平合戦のときの平家と同様、情報の統制にせよ京都の防備にせよ、万事につけ対応が緩慢なわけです。幕府軍は各地で朝廷軍を撃破して、京都を制圧し、宣旨発布からわずか1か月で完勝してしまいました。​​​​​​​

では、現代のビジネスパーソンは、そのように情報を分析・活用して偉業を成した義時から、なにを学ぶべきだと思いますか?

人間は、追い詰められると情報感度が高くなります。ですから、窮地にあることを嘆く必要はありません。むしろ、その状況を活かし、目の前の問題に対処するための情報の活用法を考えることで、成長することができるのです。いついかなる「死地」にあっても、危機意識の高い人は情報を有効に使える、逆転できる、ということを教えてくれるのが、義時という人ですね。
さらにいうと、義時は、自ら率先して組織のリーダーとなるタイプではなく、さまざまな事情に翻弄されながら、結果的に幕府のトップとなった人物です。「自分はそんな柄ではないけど、頼まれたので仕方なく……」という彼の姿勢は、まさしく令和のリーダー像そのもの。現代のビジネスパーソンは、情報活用以外にも、義時の生涯から多くのことを学べるのではないでしょうか。

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