2026年に放送予定のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公、豊臣秀長。豊臣秀吉の異父弟である(実弟説もある)彼は、兄に直言できる数少ない家臣として、また諸大名の調整役として、秀吉の天下取りや政権運営に不可欠な存在だったとされる。52歳という若さで兄より先に亡くならなければ、その後の急速な豊臣政権崩壊はなかった、という指摘すらあるほど、天下人の補佐役としての秀長の貢献度は高かったといわれている。
秀長は、兄から誘いを受けて20歳過ぎで武士となるまで、ごく普通の農民として暮らし、それからわずかな期間で名補佐役へと成長している。秀長は、明確な問題意識を持ち、そこから逆算して解決に必要な能力や情報を獲得していったのではないか。そう分析する歴史家・作家の加来耕三氏に、秀長の生涯を振り返りつつ、彼の学習法について解説してもらった。
▼加来耕三氏のプロフィール
奈良大学文学部史学科卒業。学究生活を経て、昭和59年(1984)3月に、奈良大学文学部研究員。現在は大学・企業の講師をつとめながら、歴史家・作家として独自の史観にもとづく著作活動をおこなっている。内外情勢調査会講師。中小企業大学校講師。政経懇話会講師。
・代表的著作(新刊)
『日本史 至極の終活 偉人の臨終に学ぶ人生流儀』(日本ジャーナル出版・2025))
『リーダーは「戦略」よりも「戦術」を鍛えなさい』(クロスメディア・パブリッシング・2024)
『川路利良 日本警察をつくった明治の巨人』(中央公論新社・2024)
『戦国武将と戦国姫の失敗学 歴史の失敗学3――乱世での生き抜く術と仕舞い方』(日経BP・2023)
『教養としての歴史学入門』(ビジネス社・2023)
・監修・翻訳等(新刊)
『コミック版 日本の歴史 第91巻 戦国人物伝 織田信長外伝』(企画・構成・監修・ポプラ社・2024)
『読むとなんだかラクになる がんばらなかった逆偉人伝 日本史編』(監修・主婦の友社・2023)
・テレビ・ラジオ
『先人たちの底力 知恵泉』(NHK Eテレ・不定期出演)
『英雄たちの選択』(NHK BSプレミアム・不定期出演)
『加来耕三の「歴史あれこれ」』(全国のAMラジオ局・レギュラー出演)など
※役職や所属は取材時のものです。
そのように自分なりの“問い”を持つのは、歴史学ではとてもいいことですね。では今回は、秀長の生涯や当時の情勢を改めて振り返りながら、その答えを探ることにしましょう。
そのためにはまず、秀長という人物の評価をはっきりさせるところから、話を始める必要があります。というのも秀長に関しては、「よくできた方だった」という文献がある一方、「まったくの無能者だった」とする文献もあり、よくわからない部分が多いからです。
秀長の前半生や人柄をうかがい知れるような記録は、実はほとんど残されていません。『武功夜話』(織田信長や秀吉に仕えた前野家の記録)では、少壮の頃から兄を助けたと書かれていますが、『信長公記』(太田牛一が著した信長の一代記)で秀長が初めて出てくるのは、1574年の伊勢長島攻めのときです。秀長の生誕年には諸説ありますが、1540年生まれとの説を採用すると、初登場の時点ですでに34歳になっていたことになります。
その点については後ほど考察するとして、秀長のように、意図的に自分の足跡を残さないようにこの世を去った人物というのは、歴史を扱う者にとって一番手強い存在です。ただ、そのような場合でも、その人物の果たした役割や重要性を推し量るすべはあります。その人物の死によって、世の中がどう変わったかを検証する、という方法です。
秀長は、天下統一を果たしたあとの豊臣政権において、ナンバーツーの徳川家康に次ぐ石高、すなわち大和・和泉・紀伊の116万石を領有する大大名となりました。そして、「大和大納言」と呼ばれた彼の存命中、政権は盤石でした。しかし、1591年に秀長が52歳の若さで病死すると、政権はごく短期間で瓦解してしまいます。周知の通り、秀吉の側近で秀長と並ぶ政権の要だった千利休が、突如として主君の逆鱗に触れて切腹を命じられ、さらには日本史上最大の失敗にもあげられる朝鮮出兵へと突き進んでいったのです。
はい。もちろん、秀長が生きていれば朝鮮出兵を避けられたかというと、そこまでの力はなかったかもしれません。ただ、少なくとも秀吉と利休の間の確執や、秀吉の死後に起きた政権内の武断派・文治派の争いは未然に防げたように思います。秀長が、温厚で篤実な人柄によって諸大名から信頼され、調整役として政権運営に貢献していたのは確かなことだったからです。秀長の死のタイミングによっては、関ヶ原の戦いのような豊臣・徳川の合戦には至らず、まるで違う歴史になっていたかもしれません。秀長は、秀吉の3歳年下、家康の2歳年上。三者の年齢は非常に近く、亡くなる順番の前後する可能性は大いにあったのです。
そのような「~たら、~れば」、いわゆる歴史の“if”を考えることは、歴史学では「未練学派」などと呼ばれて批判されがちです。しかし、秀長のように史料の少ない人物について考える際には、やはり非常に有用な方法なのです。
実際、そのように秀長について考察すると、亡くなって初めて価値のわかる理想的な補佐役、という人物像が浮かび上がってきます。先ほど、秀長に関する記録の少なさが不思議だとおっしゃっていましたが、まさにその事実こそ、「成功は主君に、失敗は自らに」という、秀長の裏方に徹する考え方、補佐役としての有能さを端的に示しているのではないでしょうか。
余談ですが、秀長と似た戦国時代の人物として、よく引き合いに出されるのが、武田信玄の弟・信繁です。彼も秀長と同様、主君の歳の近い弟という、家中において権威ある立場から、普段は家臣団の調整役、戦では兵站(人員・武器・食糧などを補給・輸送・管理する後方支援活動)などの重要ながら目立たない役割を担い、兄を支えつづけました。そして彼の死後、主家が滅亡への道を歩み始めたところも、秀長のケースとそっくりでした。信繁が第四次川中島の戦いで兄の身代わりとなって討死した数年後、信玄とその嫡男・義信の間に不和が生じ、最終的に義信は切腹。もし信繁が存命なら、この親子げんかを止めることができ、武田家はより早い時期に上洛(軍勢を率いて京都へ入ること)できただろうといわれています。
先ほど、秀長がもう少し長く生きていれば、秀吉と利休、あるいは武断派と文治派の対立を回避し、豊臣政権をより長く存続させられたかもしれないという話をしましたが、それと同じようなことが、信玄にとっての名補佐役だった信繁についてもいえるのです。
結論から簡単に申し上げると、自分の果たすべき役割を正しく理解し、そのために解決すべき課題に取り組むことで、自らを鍛え上げていったのだと考えられます。おそらく秀長は、特別に頭がよかったとか、機転が利いたとかいうわけではなく、能力的にはごく普通の人間だったのではないかと思います。ただ、人よりはるかに恵まれている点がありました。歴史に名を残すレベルの優秀な人材に囲まれ、教えや指示という形で、他の環境では得がたいさまざまな情報に触れられたことです。
はい。秀長の経歴から、主に3人の武将が先生役になったと考えられます。1人目は蜂須賀正勝です。秀長にとって、自分より14歳年長で、秀吉の股肱の臣である正勝は、秀吉が木下藤吉郎だった時代から深い交流のあった人物です。秀長は、経験豊富な正勝から、合戦の仕方や心構えなど、武士としての基礎となる情報を叩き込まれたはずです。
ただ、秀吉の補佐役への道を歩む秀長にとって、より価値の高い情報を与えてくれたのは、次に挙げる2人目の先生、竹中半兵衛(重治)ではなかったかと私は考えています。
はい。半兵衛は1579年、秀吉を総大将とする中国攻めの陣中で病死するまで、秀長とともに秀吉の幕下にありました。当然、秀長は、天才的な軍師として名高い4歳年長の半兵衛に、軍略はもちろん、組織における補佐役のあり方や、主従関係に関する心得などについて教えを乞うたでしょう。
その傍証となる有名なエピソードがあります。あるとき半兵衛は、同僚の黒田官兵衛から、主君・秀吉に書状をもらって感激した、という話を聞かされました。「あなたのことは弟の秀長と同然に心安く思っている」と書かれた書状をもらい、宝物にしている、と。ところが、書状を一読した半兵衛は、官兵衛の目の前でそれを破り捨ててしまいます。「こういうものを持っていてはいけない。主君がいつまでも同じ気持ちでいるとは限らず、主従をわきまえるのが臣下の務めだからだ」と諭すためでした。書状に名前の出てきた秀長は、当然この逸話を聞いたはずです。そして、兄であっても主君であり、ときには自分に対してすら非情になることを認めたうえで、補佐役としての振る舞い方を熟考し、身につけていったのではないかと思います。
そして、3人目の先生というのが、その官兵衛です。中国大返しから山崎の合戦という秀吉の天下取りの過程に、秀長は官兵衛とともにもっとも近いところで関わっていました。その際に官兵衛は、秀長より6歳年下ですが、36歳で早世した半兵衛に替わって、組織におけるナンバーツーのなんたるかを教えてくれる存在となったでしょう。
そうなのですが、それは単に環境に恵まれた、というだけの話ではありません。そもそも秀長自身が、「主君の弟として自分はどうあるべきで、そうなるために足りない能力や情報はなんなのか」という問題意識をしっかりと持っていなければ、たとえそれらに答えられる人物に巡り会えたとしても、成長できなかったに違いありません。
具体的な問題意識がない、なにがわからないのかさえわからない、これではいくら情報を集めても活用できるわけがありません。現代のビジネスパーソンにも、よく見受けられる失敗のパターンですよね。逆に、自分の解決すべき課題を客観的に突き詰め、真摯に問いかければ、答えを持つ人や情報が向こうからやってくるというのは、現代でも同様にいえることです。
秀長のそういう姿勢は、家臣の藤堂高虎との逸話によく表れていると思います。高虎は、主君を7度替えながら立身出世し、最終的には徳川幕府で外様(関ヶ原の戦いの後に徳川家に取り立てられた大名)ながら譜代(関ヶ原の戦い以前から徳川家に臣従していた大名)同様の重鎮へと上り詰めた人物といわれています。築城の名人、政治力に優れた知将として知られる高虎ですが、もともとは学問がなく、身長190センチメートルの体格を活かした、槍働きで武功を立てる猪武者でした。
そんな若い頃の高虎を召し抱えたのが秀長です。秀長は高虎に、まず鉄砲隊の指揮官、次に兵站の責任者と、見かけ上の能力や過去の経歴とはかけ離れた役目を与えつづけました。高虎からすれば、怒って配置換えを願い出て当然のところです。しかし、おもしろいことに高虎は、逆らうことなく黙々とそれらの仕事をこなしていきました。それどころか徹底的に追究し、鉄砲の組み立て方からそろばんの弾き方、ついには築城術や水軍の戦い方まで身につけるに至ったのです。
そうなのです。実は高虎には以前、合戦で亡くなった兄から、「惜しいな、お前に学問があったらどれほどの武将になるだろうか」といわれた経験がありました。それがずっと脳裏にあって、「やはり勉強しなければいけないのだな」という問題意識を持っていたのでしょうね。
おそらく秀長は、自分の若い頃の状況とそっくりだと感じたことでしょう。普通の農民でしかなかった自分でさえ、問題意識を持ち、周囲からの「ああしろ、こうしろ」という課題に応えることで、だんだんできるようになり、学ぶことが楽しくなった。だからこの男にだってできるのではないか、と。秀長自身がそうした方法で成長してきたからこそ、教える立場に立ったときに教えられた、ということですね。
繰り返しになりますが、まずは自分の役割を正しく知ること、すなわち、なにをしたいのか、すべきなのかを理解することの大切さです。そこをわきまえれば、どんな能力や情報が必要なのかを逆算し、それらを学ばせてくれる先生や書物を探すことができるようになります。
逆に、自分に足りないこと、教えてほしいことを、具体的かつ正確に理解できていなければ、どれほど優れた先生や書物に巡り合っても意味がありません。秀長が非常に恵まれた学習環境にあったことは確かです。しかし、それだけでなく秀長は、農民として一生を終えるという選択肢もあったなか、武士となって兄を助ける道を自ら選んだ以上、これで生きていくしかないのだと、自分の役割を懸命に考えました。そして、その生き方を楽しむことができたのです。単なる幸運ではなく、そういう生き残りをかけた必死さ、生きがいが、名補佐役を生む土台にあったことを忘れてはなりません。
渡辺世祐 著『豊太閤と其家族』日本学術普及会
写真提供: 国立国会図書館デジタルコレクション
セゾンテクノロジー公式YouTubeチャンネルでは、歴史家・作家の加来耕三氏のインタビュー動画を紹介しています。
本記事では、豊臣秀長の優れた補佐役としての能力や学習法について深く掘り下げてきましたが、歴史から現代ビジネスに得られる教訓についてさらに学びを深めたい方におすすめの動画です。
⚑関連動画の紹介
歴史家・作家の加来耕三氏によるインタビュー動画では、歴史の深い理解と観察眼を持つ加来氏が、徳川家康の生き方とその影響を解説しています。
【前編】日本の名前の成り立ちを例に、歴史と現代ビジネスの共通点について3つのポイントが紹介されています。豊臣秀長が持っていた問題意識と成長のプロセスは、ビジネスにおいても非常に示唆に富んでいます。
【後編】歴史家の加来耕三氏が徳川家康について探求します。家康のリーダーシップや戦略は、秀長と同様に、現代のビジネスにおける重要な「学び」となる要素が多いです。徳川家康のイメージが変わるかもしれない内容にも注目です。
豊臣秀長の実績や学習法と合わせて、これらの動画を通して歴史的な視点で現代ビジネスを考えてみるのも面白いでしょう。ぜひご覧ください!