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渋沢栄一を偉人たらしめた情報活用術(はか)()り主義

ここで浮上するのが、なぜ渋沢だけがそのようなことを実行できたのか、という問いかけです。渋沢は1867年、徳川慶喜の実弟で清水徳川家(御三卿の(いつ))当主の徳川(あき)(たけ)に従い、パリ万国博覧会列席・フランス留学を目的に渡欧しました。渋沢が公債証書について知っていたのは、そのときに日本総領事で銀行家のポール・フリュリ・エラールから教えてもらったからです。でも、徳川昭武の随員は渋沢だけではなく、全部で20人ほどいました。さらにいえば当時、渡欧経験のある日本人は何百人といたでしょう。同じような情報を見聞きした人はたくさんいたはずなのに、なぜ渋沢だけが公債証書について理解し、日本で実践することができたのでしょうか?

以前からそこが大きな疑問でした。なぜ渋沢だけが渡欧で得た情報を活用できたのだろう、と。おそらくそこが渋沢の本当のすごさなのだろうと考えたのですが、答えは出ませんでした……。

考えてわからないときには、結論から答えを導き出すという方法があります。渋沢の特徴、つまり彼だけがやって、ほかの経営者たちがやらなかったことはなにか、と考えるわけです。

よくいわれるのは、自分の利益のみを追求して、根底に正しい道徳のない企業は存続を許されないから、社会全体で富を共有して国全体を豊かにしようと心がけたこと、ですよね。

そう、道徳経済合一説ですね。そしてその考えをまとめたのが、実業界引退後の1916年に彼が刊行した『論語と算盤』です。では、彼はなぜこの本を書いたのでしょうか? ここからは推論ですが、自分の前半の生き方に対する後悔と反省があったからではないか、と私は考えています。
よく知られているように、1863年、当時24歳で尊王攘夷の過激派だった渋沢は、従兄弟の尾高(あつ)(ただ)ら総勢わずか69人で高崎城を乗っ取って、横浜を焼き討ちし、ついには幕府を倒すという計画を立てて寸前で中止、結果として出奔を余儀なくされています。次に、それからたった3年後、以前江戸に留学した際に面識を得ていた一橋家(御三卿の一)家臣・平岡(えん)()(ろう)の推挙により、あろうことか先の挙兵計画では敵と目していたはずの一橋家に仕えることになりました。この渋沢の破天荒・無節操ぶりをどう解釈すればいいのでしょうか?

どちらも理解に苦しむ行動ですよね……。

思慮浅はかだった若き日の渋沢は、高崎城を乗っ取れば、尊王攘夷の同志がそこら中から馳せ加わって大勢力となり、横浜の外国人居留地を襲えば、幕府は欧米列強に問責され、ついには転覆に至るは必定、という希望的観測を持っていたと考えられます。また、その後、一橋家に接近したのは、幕府の大立者である慶喜を説得して、彼を尊攘過激派に変えられる、と本気で思い込んでいたからではないでしょうか。彼の前半生は、すべてそういう独善、独りよがりで成り立っていたように感じます。ただ、その独りよがりな性格は、渋沢の短所であった半面、大きな長所でもありました。そしてその性格が、結果的に公債証書による廃藩置県の実現という“真の功績”につながったと思うのです。
そういう人格形成において大きな影響を与えたと考えられる、彼だけが受けて、ほかの人が受けていない教育があったのですが、なにかわかりますか?

(はか)()り主義」ですね!

そうです。渋沢は少年時代、10歳年上の従兄弟である尾高惇忠のもとで『論語』などを学び、その中で捗遣り主義という一種の読書法ないし伝授法を知りました。簡単にいうとこれは、わからないところはわからないままでいいから、とにかく読みたいもの、楽しそうなものに触れることで、なるべく早くたくさんの情報を得て、自分なりに解釈して答えを出す、というものです。渋沢はこの方法を早くから身につけ、実践し続けていました。
公債証書についてもそうで、フランスで学んだものの、実は仕組みのすべてを理解できたわけではありませんでした。わからないところも、たくさんあったわけです。それでも彼は帰国後すぐ、まずは静岡藩において、公債証書の仕組みの中で理解できたところだけを実践して、一定の成果を上げました。そして大蔵省でも同様に実践し、廃藩置県の実現へとつなげたのです。

わからないところはひとまず置いて独善的に解釈するから、間違った答えを出してしまうこともあったわけですね。

そうです。実際に渋沢は、挙兵すればうまくいく、慶喜を説得できるといった、荒唐無稽といっていいほどの誤った判断を下すことも多かったのです。それを反省したのが『論語と算盤』ではなかったか、と思うのです。実業家のする最大の独善は、私利私欲に走り、自分の会社だけを儲けさせること。しかし、それをすると国や国民から見捨てられ、企業は成り立たなくなるよ、ということを彼は必死に述べています。自分自身への猛省から出た言葉だと思いますね。

渋沢が新一万円札の肖像にふさわしい理由と、渋沢だけがそれほどの功績を上げられた理由はよくわかりました。では、渋沢の捗遣り主義から、現代のビジネスパーソンはなにを学ぶべきだと思いますか?

捗遣り主義を実践するにあたって、まず必要なのは“いい情報”、いい換えれば応用範囲の広い情報です。渋沢にとって、幼少期に懸命に読んだ『論語』『南総里見八犬伝』『三国志』、あるいは青年期に欧州で見聞したさまざまなことがそうでした。ただ、いくら上等な情報を入手しても、それを解読する能力がなければ、あるいは切羽詰まって必要とする理由がなければ、結局、情報は活用されることはできません。要するに、世の中に情報は溢れていて、その中に役に立つものはたくさんあるけれども、使える人間でなければ意味がないということです。
渋沢のように、情報を自分なりに活用して、誰にも答えられないような問題を回答してみせれば、間違いなく“立身出世”するわけですから、現代のビジネスパーソンは、そのあたりを今一度よく考えるべきではないでしょうか。