渋沢栄一が「新一万円札」の顔にふさわしい本当の理由とは?
~「日本近代資本主義の父」の背景には巧みな情報戦略があった~

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第一国立銀行(現・みずほ銀行)をはじめ、約500の企業の設立・経営に関わり、また福祉・教育など、約600の社会公共事業に携わった実業家・渋沢栄一。その人となりや業績については、昨年放送されたNHK大河ドラマ『青天を衝け』の影響などもあり、以前と比べ、歴史にあまり興味のなかった人にも広く知られるところとなった。その一方で、実業家や財閥を立ち上げた人はほかにもいるのに、なぜ彼だけが「日本近代資本主義の父」と称され、2024年から発行される新一万円札の肖像に採用されるほど高く評価されているのか、疑問に思う人も多いのではないだろうか。 現代のビジネスパーソンにとって、データを情報へと進化させ、それを「知」として活用することは非常に大切だ。歴史家・作家の加来耕三氏によれば、独特の方法でまさにそれを実践したのが渋沢であり、それゆえに「日本近代資本主義の父」となり得たのだという。本インタビューでは「情報活用」という切り口から、加来氏に渋沢の“真の凄さ”に迫っていただいた。

▼加来耕三氏のプロフィール
奈良大学文学部史学科卒業。学究生活を経て、昭和59年(1984)3月に、奈良大学文学部研究員。現在は大学・企業の講師をつとめながら、歴史家・作家として独自の史観にもとづく著作活動をおこなっている。内外情勢調査会講師。中小企業大学校講師。政経懇話会講師。
・代表的著作(新刊)
 『教養としての歴史学入門』(ビジネス社・2023)
 『徳川家康の勉強法』(プレジデント社・2023)
 『家康の天下取り 関ヶ原、勝敗を分けたもの』(つちや書店・2022)
・監修・翻訳等(新刊)
 『読むとなんだかラクになる がんばらなかった逆偉人伝 日本史編』(監修・主婦の友社・2023)
 『コミック版 日本の歴史 第87巻 結城秀康』(企画・構成・監修・ポプラ社・2023)
・その他
 加来氏が解説をつとめる『関口宏の一番新しい中世史』(BS-TBS・毎週土曜昼12時)が放送中。

企業を500も設立・経営したから? 渋沢栄一が新一万円札の肖像にふさわしい本当の理由

講演でいつもするように、今回もまずは問いかけから入ります。なぜ渋沢栄一は「日本近代資本主義の父」とまで呼ばれるようになったのでしょうか? なぜ彼が新一万円札の肖像にふさわしいのでしょうか?

今回まさにそこをうかがいたいのですが、歴史に詳しくない私のような層では、「会社を約500も立ち上げたから」「約600もの社会公共事業に携わったから」と理解されていると思います。

そういった回答は多いですが、それだけが答えではありませんよね。というのも、それなら「東の渋沢、西の()(だい)」と並び称される同時代の実業家、五代とも)(あつ)が「日本近代資本主義の父」と呼ばれてもおかしくないことになります。大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を設立して、崩壊寸前の大阪経済を立て直すなど、五代の業績は渋沢のそれに匹敵しますし、なにより五代は「維新の三傑」の一人である大久保利通と懇意な間柄だったわけですから。50歳と比較的早く亡くなってしまったことを差し引いても、五代のほうが高い評価を受け、渋沢はその下に埋もれていたはずです。ところが、そうはならなかったのです。それはなぜでしょうか?

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そこがよくわからないので、「なぜ渋沢が新一万円札に?」というモヤモヤが残るのだと思います。

それゆえ歴史学では、このように、「なぜなのか?」「もしそうでなければどうなっていたのか?」という根本的な疑問を、常に持っていないといけないわけです。
渋沢は、現在の埼玉県深谷市血洗島の豪農の生まれで、のちに徳川幕府15代将軍となる徳川慶喜に仕えました。つまり、明治維新の中心となった薩長土肥の出身ではないどころか、元は武士ですらなく、負けた幕府側の人間であり、しかも肝心の明治維新のときには、渡欧中で日本にいませんでした。そのような人がなぜ、明治維新において、経済の中心を担う人物と称されたのでしょうか? なぜ渋沢は、国立第一銀行の頭取になれたのでしょうか?

ますますわからなくなってきました……。

今回のテーマに沿った答えを、先にひと言でいってしまうと、それは渋沢が、生い立ちや前半生の経験・反省から、「情報」というものに対して独特の考え方や活用法を身につけ、実践したからだ、と私は思っています。
順を追って考えていきましょう。まず、「日本近代資本主義の父」と称されるに足る、渋沢の“真の功績”を理解するためには、その前に、明治維新とはなんだったのかを考える必要があります。そもそも明治維新は、なぜ行われたのでしょう?

欧米列強による外圧に対抗するには、産業を興して国を富ませ、軍事力を強化しなければならなかったからだ、と学校では教わった気がします。

いいところまでいっていますけれど、もう一歩ですね。実は明治維新は、日本とは一見なんの関係もない隣国の戦争である阿片(アヘン)戦争からスタートしている、ということから考えなければなりません。兵力88万人の清(当時の中国)が、兵力(それも延べにして)たった2万人のイギリスに敗れたことが、明治維新のテーマに直結しているからです。

44対1の殴り合いで、44のほうがなぜ負けたのでしょうか。考えられるのは、44のほうにやる気がなかったか、44のうちの1~2は戦ったけれどほかは無視したか、どちらかしかありませんよね。すなわちそれが、あの時代の封建制の実情を示しているのです。当時の清では、省や州それぞれがひとつの「国」と考えられていて、清という「大きな国」があるという概念を誰も持っていませんでした。そのため、ある省がイギリスに攻撃されても、近隣の省から助けが来ません。そもそも阿片が国中に広まったのも、ひとつの「大きな国」という概念がなかったため、ある省で阿片が蔓延すると、それを没収して隣の省に捨て、それがその省ではびこってまた隣に捨てる、ということを繰り返したのが原因でした。結果として清は、総兵力では敵の44倍だったのに各個撃破されて負け続け、南京(ナンキン)条約という不平等条約を結ばされることになったのです。

当時の日本も清と同じ状況だったということですね。

そう、幕末においては藩をもって「国」、それぞれの藩の住民を「長州人」「薩摩人」などといっていて、「日本」「日本人」という認識は存在しませんでした。薩摩藩11代藩主の島津(なり)(あきら)らは、清の思想家・()(げん)によってまとめられた『海国図志』を一所懸命に読み、阿片戦争での清の敗因がまさにそこにあったことを知って、ひとつの結論に行き着きました。「日本」「国民」という概念を作り、国民一人ひとりに「日本」を守るという意識を持たせない限り、列強の植民地化政策から逃れることはできない、と。それこそが明治維新の命題であり、戊辰戦争が戦われた理由なのです。
そのような中央集権化が明治維新の目的であるならば、1867年の大政奉還や1868年9月の「明治」への改元、あるいは戊辰戦争の終結をもってしても、まだ維新が達成されたとはいえませんでした。確かに幕府はなくなりましたが、藩はひとつも潰されていなかったからです。徳川家康は関ヶ原合戦後に、負けた西軍の大名の大半を改易(かいえき)しましたが、新政府はすぐには同じようにしませんでした。というより、できなかったのです。それはなぜでしょう?

藩ごとに政治と経済があって、簡単になくしてしまうわけにいかなかったから?

その答えだと、ちょっと脱線してしまいますね。新政府が藩を潰せなかった理由が、渋沢の“真の功績”とはなにか、という最初の問いかけに直接結びつくように答えを探さなければなりません。要するにその答えこそが、誰にもできなかったことを渋沢が成し遂げた、ということとイコールでつながるわけですから。
もし藩を潰して、各藩から家禄をもらっていた武士たちの大半を追い出したらどうなるでしょうか。現代に置き換えるなら、すべての公務員を退職金なしでクビにして、一部だけ再雇用するようなものですから、確実に暴動が起きますよね。さらに各藩は、藩札というその藩内だけで通用する紙幣を大量に発行していました。要するに、藩札を持つ豪商・豪農などに対して莫大な借金をしていたわけです。それを新政府が返済せずに、なかったことにしたら、そこら中で一揆が起き、明治維新自体が潰されてしまうでしょう。
藩を潰して中央集権化を実現するには、これらの問題の解決が不可欠だったわけです。武士たちの当面の生活の面倒を見るためのお金と、藩札を回収して借金を返済するためのお金がどうしても必要でした。ところが、新政府にはお金がなく、お金を工面するための情報を持っている人もいませんでした。そんな中、たった一人だけその答えを導き出した人間がいたのです。

それが渋沢だった、と。

そうです。ここで渋沢は、公債証書という手を日本で初めて持ち出しました。政府が公債を発行し、民間に眠っている資金を利息によって引き出して集めるという方法です。渋沢は、各藩の藩札の価値と家禄の総額を算出して、家禄には差等をつけ、利息をつけて、30年かけて償還する約束で各藩士を金利生活者に、藩札は回収、新紙幣と交換しました。要するに、公債でお金を借りるけれども、返済はちょっと待ってほしい、その代わりに利息をつけるから、という形で貸し手を納得させ、莫大な資金を調達したわけです。そして、この(ちつ)(ろく)処分によって1871年の廃藩置県、つまり明治維新の目的である中央集権化が実現しました。これこそが、「近代日本資本主義の父」と称され、新一万円札の肖像となるのにふさわしい、渋沢の“真の功績”だったのです。